とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

悪人成仏

悪人成仏とは歎異抄第三条に書かれています。

 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

 

親鸞聖人は、悪人正機とは言っておられず悪人成仏と言われています。
悪人正機とは、悪人が正客、対象であると言うことです。
当たり前ですが阿弥陀仏の本願のお目当てと言うことです。
一方、悪人成仏とは、悪人が成仏するという事です。

親鸞聖人は悪人をどのように言われているかと言うと同じく第三条の中に以下のように言われています。

 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば・・・

 

煩悩具足の我らは、いずれの行によっても生死を離れ(六道を出離すること)ることは出来ないものと言われています。
煩悩具足を悪人と言われているのです。
貪欲、瞋恚、愚痴ですね。

ところが同じ歎異抄第一条にはこのように書かれています。

 

本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと

 

本願を妨げるような悪は無いのだから、悪を恐れるなと言われています。
私はこんな悪人でどうしようとか、悪ばかり造っているからもっと良いことをしなければ助からないとかそんなことは阿弥陀様の御本願は問題にされていないと言われています。

また、第十二条には以下のように書かれています。

 

本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ・・・

 

阿弥陀様の御本願は善いとか悪いとか、きれいとか汚いとかを問題にしないと言われています。

さらに、第十五条にはこのように書かれています。

 

来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。 これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

 

修行の出来ない機の劣ったもの救う教えであり、善悪を問わない教えであると言われています。

では、悪人成仏で言われている悪とは何か。
矛盾しているように感じるのは、悪を道徳的、また世間一般で考えておられる悪と思うからです。
どうも人を殺したり盗んだり悪口を言ったりと言う当然仏教で説かれている悪を対象に言っているようには思えません。

 

善悪を問わないとは、何が善で何が悪か問題にしないとはどういうことか。
仏様と私を比較した場合、仏様が善で私は悪です。
阿弥陀様がすべて善で私はすべて悪と言うことです。
本願を信じない、救いを疑う、自力の計らい一杯、これが悪なのです。
この自分でも気がついていない常識の善悪を超越したところの悪を対象としているのです。

 

弥陀智願の広海に 凡夫善悪の心水も 帰入しぬればすなわちに 大悲心とぞ転ずなる

正像末和讃

 

「転ず」の左訓に「アクノ心ゼントナルヲテンズルナリトイウナリ」とあります。
凡夫は変わりません。煩悩具足も変わりません。
煩悩が善になる訳がありません。
ところが悪の心が善と変わると言われているのです。
悪は、仏を疑う自力の心の事なのです。

 

そして第十四条にはこうあります。

 

この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、

 

この阿弥陀様の御本願が無ければ、この浅ましい罪人はどうして生死を解脱出来るものかとあります。ここでの罪人は煩悩具足の凡夫のことを言われているように思われますが、実は自力無功の我が身を嘆いて言われていると思われますので混乱します。

最後に後序を引用します。


聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを・・・

 

それほどの業をもっている身を助けようと思われた本願のかたじけないことよと言われています。

いずれの行も出来ない、自力では仏に成ることが出来ない、と言われているわけで、繰り返しになりますが悪人成仏の悪は道徳や常識で言う悪ではありません。

 

常識や道徳で言われている悪、また仏教で言われている悪は当然慎むべきであり、私が聞かせていただいているのは仏教なのですから控えるべきものは当然控えなければなりません。
一方で現代に於いて生命の尊厳や尊さを軽視した考え方に毒された人においては、そもそも道徳的な悪を教える必要があります。


しかし、高森顕徹会で教えるのは道徳的な悪を徹底的に止めるよう強要されるため、長年会員をされている方の中には耐えられず自分の存在も否定してしまいます。

高森顕徹会での地獄一定がハッキリしたとか、罪悪深重の我が身が知らされたとかいう極端な体験を強調し、そうならなければ救われないとは、お聖教の何処にも書いていません。
それは人それぞれ、中にはそういう人もいるでしょう。個人的には疑わしいところがありますが、実際に高森氏が本当にご信心を頂いているのかどうかは阿弥陀様にしか分かりません。一方で高森氏に導かれたという人もいると聞いています。

見えない人には分からない、信じられない世界かあるかもしれません。
ただ、誰にも分からないからそれは真実では無いと決めつけるのも間違っています。
また、見えたと言っている世界が本当に正しいかも分かりません。

 

お釈迦様の覚りの世界が分からないように信心の世界も分からないことが多く、これが信心の世界などと決めつけることも難しいと思います。
それでも阿弥陀様のお慈悲に触れたお同行は同じ事を言われ、共に響き合うことが不思議と出来るのです。
だからお聖教のお言葉に従い、同じ念仏者として友、同行と信心を語り合うことが大事だと思います。

機を喜んだり法を喜んだりそこで響き合う世界が信心の世界です。


私の信心が本当かどうか、そんなことはどうでも良いと今は思いますが、友、同行と語り合える世界がブログの中にも広がっていることが嬉しく思います。

阿弥陀様のお陰、南無阿弥陀仏しかありません。

 

悪に関して言えば、阿弥陀様の救いの基本は自力ではどうしてもこの生死の一大事を解決出来ないという点に関してうなずけるのかどうなのかを問題にしているわけです。
高森顕徹会で地獄一定を徹底的にたたき込まれ、そのせいで精神を病んだり仏教から遠ざかったりした人は多くいるでしょう。
そんな地獄秘事的な教えは典型的な異安心として残っています。
地獄秘事の事例として東本願寺の江州光常寺の記録が真宗大辞典にあります。
興味のある方は調べてみてください。

また今回は書いていませんが懺悔と歓喜の問題もあります。
これはまたいつか書きたいと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏