とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

異安心

異安心とは浄土真宗で言われる信心と異なる信心のことを言うのですが、では真宗で言われる信心とはいかなるものかが最初に説かれねば成りません。

ところが、真宗で言われる信心とは言葉にすれば「南無阿弥陀仏一つで何も必要無し」なのですが、それを受け取る私たちにはいろいろな受け止め方があり言い尽くせないところがあります。当たり前ですが阿弥陀様が本当で私の方は虚仮不実ですので、どれだけ私の機を説いたところで何が本当かよく分かりません。

また、阿弥陀様が真実でありそのお徳をそのまま受け取っておられても、阿弥陀様のお徳はあまりに深くそれを凡夫に説きつくすことは出来ません。

そうなると最初の入り口でつまづいてしまい、後は勝手な解釈がばっこすることになります。

ですので、一応昔から「安心論題」と言われる真宗の信心の姿が示されているのです。

その数は現在25題ですが、大正時代は30題ありさらにその昔は130題あったと言われています。

本来は、じっくり一つ一つ我が身を法に照らし合わせて確認作業をするべき事なのですが、それもせずにこれが本当だと勝手に思い込み人の安心を批判するのは問題があります。

また、私自身の考えを言えば教行信証親鸞聖人のお言葉をそのまま、私がうなずけるかどうかが問題だと思います。なにせ浄土真宗の御開山のお言葉を無視した信心は始めから嘘ですので、そこは一番大事だと思います。

とは言えここで教行信証のすべてなど説けるわけも無くそんな力もありません。また、安心論題25題を一つ一つ確認するのも難しく、私もそこまで分かっているかというと正直よく分からないことがあります。

それで逆に異安心とは何なのかというところから本当の安心のアウトラインでも見ることが出来たら良いなと思い今回は異安心を私の知る範囲で確認していきたいと思います。

今、本願寺派では正しく法を説かれる方が沢山おられますが、一方で無帰命安心、本願ぼこりおよび十劫安心的な僧侶がいるのは事実でしょう。

門主大谷光真師はそのことを嘆いておられるのでしょう、いろいろな本を書かれています。

また、一方で親鸞会のように信心獲得にはハッキリした大自覚がなければならないと大声で叫んでいるのは全く異安心であると実は歴史が証明しているのです。三業惑乱がそのことです。

さらに体験主義、神秘主義などは人を引きつける麻薬のようなもので、実際の信仰には邪魔になります。

とは言えでは、何も気づきや慶びが無いとなるとこれは信仰にはなりません。

異安心を知ることにより本当の安心がどういうものなのか皆さんにも考えてもらいたいと思います。(追加:本当は自分が一番考えなければと思いますが・・・・よろしくお願いします。)

 

まず浄土真宗の救いを確認します。 

法然上人はご修行の末、選択本願念仏集を著して下さいました。

その冒頭には以下の文章が最初に書かれています。

 

法然真筆の冒頭文「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」

(往生の業には念仏を先となす。) 

 法然上人は凡夫の救いのために御念仏を選び取って下さいました。

他のどの教えより御念仏による救いが一番であると。御念仏によって救われるのです。

 

そして親鸞聖人も大変なご修行のすえ法然上人にお会いになり、「念仏成仏是真宗」と教えてくださいます。

 私の後生をまかせるのはこれしか無いのです。

私たちが御念仏を選ぶのか、ほかのものを選ぶのかは私自身が決めなければなりません。そしてその安心についても私が確認作業を行っていくことが必要だと思います。

これで大丈夫と自分で判断を付けるのでなく、いつも教えに聞いていく、阿弥陀様に聞いていくことが大事だと思います。

このことをどういただいているのが正しいのか、そして、逆にどういただいているのが間違いなのか、今回は後者を考えていきます。

 

 では、異安心と呼ばれる代表的な二つについて書きます。とにかく議論になりやすい信心です。

 

「十劫安心」

「『十劫正覚の初より、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、すなわち信心のすがたなり』といえり。これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし」(2帖目11通)

「十劫安心」というのは、十劫の昔に「衆生往生せずぼわれ正覚とらじ」という誓願を成就して阿弥陀仏となられたのであるから、その時すでに私どもの往生は決定している。それを今まで知らなかっただけであるから、これを知って忘れないのが信心である、というように、信心を観念的に理解するものであります。

これに対して、蓮師はそのような理解では他力の信心を得たとはいえないと誠め、阿弥陀仏の救いの法は十劫正覚の始めにすでに成就されているけれども、私どもがその法をよくお聞かせいただいて、信心獲得しなけれぱ往生できない旨を述べられていまず。

つまり十劫安心は、五重の義として示されているような、獲信にいたるまでの過程(プロセス)や、信後のあり方などを全く無視して、理屈だけの空虚なとらえ方をしているものであります。

これは蓮如上人当時にあった誤った見解である、といって済ますことはできないと思われます。私は何もしなくても如来さまの力で、死んだら極楽浄土、こんな気楽で結構な宗旨はないと決めこんで、法座が勤まっていても知らん顔、聞法とか信心安心とかいうことは自分には関係ないとばかり、平気で過ごしている人が現にたくさんいるのではないか。思いここに到れば、蓮師のお言葉は今の私どもに、痛いほどひびいてまいります。(浄土真宗アーカイブより)

 

「一念覚知」

・・・高森氏の主張するところは、信一念の自覚は必ずあるのであり、獲信した時がいつであるかが分らないようなものは信ではないとするのであるから、信一念の実時に用事がないといいながらそれにこだわり、一念の覚に執ずるものである。従って、三業惑乱時に一念覚知の異義と裁断されたものと同類の異義として退けられるべきものである。

だが気をつけねばならないことは、大原性実氏も「覚知説の取り扱いに際して特に注意を喚起したい点を記しておきたい。それは信の覚知を否定することと、信一念の事実を否定することとは同じではないということである。信一念の事実たる心相は、信文類に示すか如く、無疑無慮ということである。この一念の心相の事実を否定すれば、恐らくは信前と信後の区別は弁明せられないあでろうと指摘しているように、信一念の覚えがなくてはならないという一念の覚知と、本願にうたがいはれた無疑無慮の心相とは全く別であり、覚知を否定することは決して本願にうたがいはれた信心決定・往生一定の確信やよろこびをも否定するものではないことは十分わきまえ、且、注意しなければならないことであろう。

一念覚知説の研究 紅楳英顕 伝道院紀要19号

 

以上の文章を読めば本当によく分かるのですがとりあえず一言。

十劫安心は、本願ぼこりとよく似ています。どちらも阿弥陀様の本願があるのだからこちらは何もしなくても良いというところです。

こちらの思いに関係なく、そのままの私を救うのだから、これで良し。帰命の一念など分かるはずが無いのだから問題ないなどど言うのです。

確かに本願は無条件ですが、大事なことが一つ抜けています。それは信心です。親鸞聖人は信心正因を称えておられます。

実際には覚如上人により体系づけられたのですが、それにしても信心と念仏はいつも一緒です。「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」と親鸞聖人はおっしゃっておられます。また、信心に二種深信が備わっているのかどうかが判断材料の一つになります。

 

一念覚知については、機決定(追加:機の決定が必要という意味で無く、自らこれで良しと決めた信心という意味の場合は一念覚知とは異なります)と同じで体験主義的な意味が大きいと思います。あの時、あの体験をした、雷に打たれたようにハッキリした、阿弥陀様に会ったなどは、典型的だと思いますが、これはこれでその人が御念仏を喜んでいるならそれで良いのですが、そうでなければ信心を得たと言わないと断定することが間違いだと言われていると思います。

信心には人それぞれ、十人十色の現れ方があります。蓮如上人の御文章にもあるように花の開き方にもいろいろあるということです。繰り返しになりますが、それをこのハッキリした体験の無いのは駄目だと断定することが間違いだと言うことです。

阿頼耶識が分かっただとか、地獄に落ちただとか、阿弥陀様にお会いしたなど、とにかくハッキリ火を触るよりも明らかな体験がなければ信心決定ではない言うのは一念覚知の異安心の典型でしょう。

 

過去から沢山の人が信心を得ています。妙好人と呼ばれる人しか信心を得ていないと思うのが大きな間違いで、浄土真宗の信心を頂いている人は、本当に沢山おられるのです。そこに親鸞会の大きな間違いがあります。「国に一人、郡に一人」とほとんど何処を探してもいないと蓮如上人の御文章を引き合いに教えますが、全くの間違いであちこちの法話会に行けば必ず一人や二人の信心を頂かれた人にお会いすることが出来ます。

ただ、その事を知るにはちょっと時間がかかりますので、結果としてなかなか本当の信心を得た人を探すのは大変なのですが、親鸞会の会長しか安心を得た善知識がいないという考えは全く間違いです。今は全国の法話会の案内がネットでされていますので善知識も沢山おられることに気づきます。「浄土真宗の法話案内」と検索を書ければホームページが見られます。

それらの方のご法話を聞かせていただけば、信心というものがある程度分かってくるのではないでしょうか。

 

その他、地獄秘事、土蔵秘事、無帰命安心、善知識だのみ、本願ぼこりなどについては次の機会にします。 

 

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