とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

オリンピック選手と信心

今、まさにオリンピックの真っ最中です。

私も好きな選手を勝手に応援して興奮しています。

選手はそれぞれの思いを胸に4年間かそれ以上の時間と体力とお金のすべてをつぎ込んでたった一度のチャンスに賭けています。

それで本当に何が得られるのか、地位や名声や財産を築くことも出来るでしょうが、そんなことよりとにかく勝ちたいのか、いずれにしても何か分からない大きなものが手に入るのかもしれません。

ある人が言っていましたが、そこに立たないと見えないものがあると。

ある頂点に立ってみて始めて見えるものがあるのでしょう。それを得ようと必死で努力している姿は我利我利亡者と言えるのか、私はそうばかりとは言えないように思います。

どうしても彼らの努力は無駄ではないと思ってしまいます。何を得るか分からないが何かあるに違いない、本当は何も無かったことに気づくかもしれないがそれでも努力する姿は尊敬にこそ値する姿だと思います。

そんなことは分かっていると言われる方は多いと思いますが、やはり自分の人生と比較して我が身をもっと向上させたいと思わせてくれるのですから大事だなと改めて思います。ちょっと大げさに言えば日本人のアイデンティティを向上させるのではないかと思います。

翻ってご信心を頂きたい、後生の解決を人生賭けてしたいという思いはどうでしょうか。オリンピック選手ほど命がけの求道をしたのか、夜も寝ることが出来ないくらい悩んだのか、様々な思いが沸いてきます。私は私なりに人生を賭けて求めていると言われる方も多いと思いますが、私はオリンピックの選手を見て自分の求道を振り返ってみたとき甘ちゃんだな~と思わずにおれませんでした。

オリンピック選手の道は聖道門の道なのでしょう。

親鸞会において、活動を必死にされていた人は沢山います。私など嫌々参加していたくらいですからどうしようもありませんが、一生懸命活動されていた方は、それは本当に尊い姿なのかどうかを思い返してみたとき、一つ大事なことに気がつきます。正しい道か、そうでないかの違いです。

オリンピック選手の道は世間的価値から言えば正しい道です。親鸞会の活動は世間的な価値から言えば正しくない道です。

何が正しくて何が間違いかは言うまでもありません。

では、仏様の目から見たらどうでしょうか。

残念ながらオリンピック選手より親鸞会の方が阿弥陀様には近いと思います。あくまで比較の基準が後生の一大事の解決とした場合ですが。

しかし親鸞会にいてはいつまで経っても救われることはありません。なぜなら求める方向が違うからです。そうすると親鸞会の方が後生の一大事の解決について近道なのかどうか分からなくなります。オリンピック選手が無常に気づき後生の解決を求めて本山に駆け込んだなら一番近道になるかもしれません。

では、後生の解決は行き当たりばったりなのでしょうか。

答えはすべて阿弥陀様によるお導きでしょうが、この世にいるかぎり自分の意思で求めるべきだと私は思います。いかに軟弱な根性だとしても、最後は阿弥陀様のお力で必ず救って下さるとしてもです。自分の思いなど全く役に立ちませんが、後生の解決、気になってしまったのですからそれを放っておいてよいわけがありません。

求道の動機は、非常に打算的なものだったかもしれません。また、オリンピック選手のように必死に求道したのかどうか私については疑問符は付きますが、それでも求めずにはおれませんでした。

そして、たまたま、ほんとうに、たまたま、道を歩いていたら躓いて気がつかさせられた、そんな程度にしか思っていないのが私ですが、そこに阿弥陀様の願いがかかっているのではないかと思います。その一瞬をずーっと待っておられたのではないのか。

阿弥陀様はオリンピック選手の気持ちとは比較にならないお力で私と取り組まれていたのではと思います。負けても負けても今度こそ、今度こそ信を与えてやると何度も何度も私に向かってきたと思うのです。

それも何度も何度も生死を繰り返している私に対してです。

申し訳ないやら、もったいないやら。

私はそんなことも分からずにこちらがオリンピック選手になったようにうぬぼれて阿弥陀様に向かっているのですから。自力一杯求めているそのことが良いのか悪いのか分かりませんが、この大矛盾に気がつくのは大変な事です。

自力無効とはこのこと。

南無阿弥陀仏しかありませんね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

映画「なぜ生きる」(賞味期限切れ)

ちょっと前に「なぜ生きる」の映画についていろいろブログで言われていました。

そもそも時代考証がデタラメだと言われていますが、ちょっと調べればその事を確認できます。また、ご本尊や腹ごもりの表題がデタラメと言われていますが、それもちょっと調べれば分かります。

また、アマゾンの書籍案内で「なぜ生きる」の書評を読むと親鸞会の実態が分かります。特に★一つの欄を読むと「あ~、そうね」と納得します。たぶん、★4つは親鸞会の会員が書き込んでいるとしか思えない書き込みがほとんどです。

個人的には、山も山さんのブログを非常に印象深く読みました。

親鸞会親鸞聖人の教えを捨てたと言われたのは、本当にそうだと思います。最近のブログの書き込みでもエセ僧侶が親鸞会本願寺派同じだと必死に書き込んでいましたが、言っていることとやっていることが全く矛盾していて、本当の行動にほおかむりして読む人を混乱させようとしているのがよく分かります。

私もそうでしたが、アンチ親鸞会のブログを現役の時は読みながら読んでいませんでした。つまり、頭から嘘が書いてあると思って読むのでまともに読めないのです。

本来真実を説かなければならないのに嘘や捏造された内容が真実だと教えられているのです。混乱しないわけがありません。

 ある意味それほど私の頭はボンクラだと言うことです。真実と嘘を判断する力は、正しい教えを聞いていて初めて判断出来るのですから。

しかし、浄土真宗を表看板にしながら、教えをねじ曲げていることの罪は大きいと思いますね。

どうしようもない映画を見られた一般の人が親鸞会に騙されないことを期待するばかりです。

一方、参議院選挙も終わり、さらに都知事選挙も終わりました。親鸞会の映画など「知らん」会で、もう賞味期限切れの感がします。移り変わりは早いですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

8月21日は嶋田さんの勉強会です。よろしければご参加ください。

メールをいただければ場所等をご連絡します。

 

いいことばかりはありゃしない!!

忌野清志郎の歌のタイトルです。

先日、テレビで武道館ライブ(結局最後のライブでした)を見ました。

知っている人は知っている名曲だと思います。

まあ、自分が思っているだけかもしれませんが。

年が分かってしまいますが、学生時代にRCサクセッションの「トランジスタラジオ」を聞いてすごい衝撃でした。

すでに発売から数年も経っていたのに知らなかったのです。

それからRCサクセッションを沢山聞きました。

そして、知った曲が「僕の好きな先生」です。ほかにも良い曲は沢山ありますが、リアル感がすごい曲だなと思いました。

「いいことばかりはありゃしない」は「そうだな」と思いながら学生時代を過ごしていました。

知らないうちに音楽から結構影響を受けていたのだなと思います。

今更ながら歌手は「すごいな~」と思います。あの、感性は私にはありません。

何か深いところの自分をいつも見つめているのではないかと思います。

欲望は果てしなく、何をしても満足せず、しばらくしたら飽きてくる、その繰り返しにゴールは無い、何とも言えないむなしさに包まれながらそれでも生きなければならない、なんともならない気持ちに支配され苦しくて仕方なくなる、それでも頑張って生きて行くのに何の意味があるのか、そんなことをずっと思いながら過ごした学生時代、歌に感動しても答えは得られない、その疑問に答えてくれたのが仏教でした。

でも、出会ったら幸せばかりだったかというと反対に求めても得られないものにとことん苦しめられるとは何をしているのか。

たとえ仏教と出会ったとしても本当に満足しているのか、苦しみのこの世界は何も変わらないのではないのか。

信心がある、無いにかかわらず、私は同じだと思います。

 

ただ、ひとつ違うのは人生が終わることに対してしかたないかと思えることだけです。

「いいことばかりはありゃしない」それがこの世の中なのですよね、自分の宿業を引き受けていく世界なのかなとも思います。

「いいことばかりはありゃしない」そのことを受け止めて生きて行けば結構楽かもしれません。自分の心が気楽になれば世の中案外捨てたものではないかもしれません。

有り難い事に南無阿弥陀仏とも出会うことが出来ました。

南無阿弥陀仏に出会っていなかったら何をしているのか、危なくて仕方ない人生だったでしょう。いまでも結構危ないと思うことがあるのですから。

「いいことばかりはありゃしない」、でも、たまには良いこともあるかも。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

勉強会のご案内

皆様へ

お知らせです。
嶋田さん(親鸞会元講師、「私の白道」の作者)の勉強会を開催します。
場所はいつもの愛知県です。
日にちは 8 月 21 日 ( 日 ) です。
時間は 午前10時から午後4時30分まで の予定です。
勉強会のテーマについては、 「南無阿弥陀仏の心」です。
ご縁があれば是非ご参加ください。
詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)
hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
折り返しお知らせいたします。
私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。

個人情報を漏らすようなことはいたしませんので気楽にご参加下さい。

よろしくお願いします。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

本山(龍谷山本願寺)

最近は本山と言えば、京都の西本願寺の本山をイメージします。

残念なことに一番最初に行ったのが、例の座り込みですので次に行くまでに相当時間がかかりました。

次の機会は、750回大恩忌の時ですので5年くらい前でした。その前にも一度行ったのですが、ちょっと入っただけで、大恩忌の時は御影堂と阿弥陀堂でたまたまおつとめがあったので一緒に聞かせていただいたのです。しばらく阿弥陀堂でお勤めをじっくり聞かせていただいていると、なんというか本当に有り難いと思いました。

歴史の重みと阿弥陀様を感じることが出来ました。

それまでの垢を流すことが出来たような気がしました。「ここまで来るのに長かったなあ~。」としみじみしたことを思い出します。

とにかく来るものは拒まず、去る者は追わずは親鸞聖人の姿勢なのだなと感じさせていただきました。

日本に浄土真宗がある限り大丈夫だと変な安心感もありました。

一方で、名札とセキュリティーチェックの親鸞会の本部会館を思い出します。

退会後、何度か高速道路から見かけたことがありますが、懐かしさより違和感の方が最近は大きくなってきました。やはり、邪教の臭いがぷんぷんなのかもしれません。

もっとオープンにすれば変わるのにと思いながら、いろんな思いが頭の中を通り過ぎていきます。

親鸞聖人から始まり、蓮如上人さらには何代も連綿として続いている本願寺を見るたびに聖人が言われた大乗相応の地という言葉を思い出します。

本山があることは心のよりどころとなるわけですから、本当に大事な存在であり未来永劫続いて欲しいと思います。

また、以前はそんなこと少しも思わなかったのですが、本山のおかげで今の私があるのだなとも感謝いたします。

ところがどこかの会長が若い頃この本山を焼こうとして本山から僧籍を剥奪されたという噂を聞きました。本当かどうか知りませんがとんでもない人だったんですね。

退会出来て良かったと本山に行くたびに思い出します。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

私と阿弥陀様の関係

私と阿弥陀様の関係は図で表せば以下の通りです。

親鸞会を辞めて本当の阿弥陀様の御本願のいわれを聞かせていただいたそのころの私は、阿弥陀様を自分に取り込もう、取り込もうとしていました。

ですのでいつも中心は私でした。阿弥陀様が中心になることはありませんでした。

私の中の知らない私も、私の小さな一部としか思っていませんでした。

それでも取り込もうとする気持ちはいつまでも変わりませんでした。

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ところが、いつからかその関係が以下の図のようになってしまいました。

これはこれで驚きでした。そうか、自分の知っている自分はほんの一部で自分の知らない自分が本当かもしれないと。そして、いままで取り込もうと思っていた阿弥陀様はどうもそうではない。自分にずっと働きかけて下さっていたのかと。

私には、信じる心も、念じる心も、求める心も無いのだと、そして、何一つ分かっていないのが私だと。

結構衝撃でしたね。

今でもそうだなと思います。

でもね、上の図、これ今でも私なんですよ。そして下の図も私なんです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

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これで良しとする。

私はもうご信心はハッキリさせていただいたから、私はもう良いんです。

それよりも今だご信心がハッキリされていない方を何とかしたいと思っています。

・・・・・・

ある意味ありがたいお言葉であります。そんな心は今まで無かったのに、なぜか信心と言う物を知らされて言わずにおれなくなるのは、私から出てくる言葉では無く阿弥陀様のお心と知らせていただいています。

ところが、本当に私はご信心を頂いたのか、嘘じゃないのか、そして今出て行く私の後生はどうなのかと聞かせていただいたなら、どうでしょうか。

私が何を頂いたのか、そして、何を人に伝えたいのか、私は一体何を知らされているのか。

反省しきりです。

自分をこれで良しとするほど傲慢な事はないと思います。

阿弥陀様は真実、私は虚仮不実、これが真実ですから。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏