1 迷うこと。心が乱れて判断がつかない状態。まどい。「行動に―を生じる」「一時の気の―」
2 心が煩悩(ぼんのう)に乱され、悟りきれないこと。また、成仏の妨げとなる死者の執念。
3 紛れること。紛れ。
4 織物の糸や髪の毛が乱れること。ほつれ。
迷いということについて考えてみました。
まず、迷いとはどういう意味なのか。辞書では上記のような意味です。
次に私は迷っているのかいないのか。
あらゆる選択の場面で私は迷っています。ただ、習慣となっている事以外では常に迷いっぱなしです。
ましてや仏教に関しては押して知るべしです。全てを間違いなく判断する知識も経験もないくせして、さも知ったような行動をとっているのです。たまに上手く事が回るのはどこかで読んだか聞いていたことをしただけなのです。
結局、私は迷っているため、何が本当か判断が付かないのです。
阿弥陀様の本願をそのまま聞くと言われてもその言葉をそのまま聞くのでなく自分の思いや考えなどをいれて種々に変化する状態のまま聞くため何が何だか分からない状態になります。
ところが私が迷っているというところに基軸をおいてすべてを眺めてみるととんでもないことが分かります。何が分かるかというと私は何一つ信じていないということに気づきます。
食べ物や私の身の回りにある物は、間違いなく有り私を害するものではないと認識していますが、それも食中毒や災害等によって信じられなくなることは普通にあります。ただ、時間がたって忘れてしまうだけなのです。
人間関係においてはなおさらです。
また、仏の悟りとは迷いを正しく迷っていると見ることであると聞いたことがあります。
仏の悟りは迷いをそのまま見るのでしょう。
正見です。
ところが凡夫の私はありのままに物事を見ることが出来ません。
阿弥陀様の御本願も、そのまま受け取るとはありのままに受け取ることで、正見に当たるのかもしれません。(済みません、勝手な解釈です)
そうすると仏様は正しくものを見ることが出来るが、私は正しくものを見ることが出来ないので受け取ることは出来ないのではないかと思われます。
阿弥陀様の御本願も正しく受け取っているかというと疑問符が付く気がします。
正しく御本願を受け取っていると思っていても、本当かどうか分かったものではありません。
そういう意味で言うと、私は救われたとか信心決定したと言うことを声高々に叫ぶのはどうかという疑問が起きます。
ところが不思議の仏智と申しましょうか、自分が引き起こしてしまっている煩悩によって、自分で見えなくしてしまっているのだけれども、阿弥陀仏の大悲の光明、大いなる哀れみのお心は、あきらめることなく、常にご自分を照らして護ってくださっていることに、親鸞聖人は感激しておられます。
だからこそおまえを救うと誓われた御本願を喜んでおられます。
阿弥陀様は迷っている私を、おまえは迷っているだけで何も判断できないが、そのまま私の言葉を聞けと言われているのかもしれません。
結局、迷っている自分に気づかされるのが大事なのでしょう。
私は毎日迷いのまっただ中にいます。
根拠
曇鸞大師の往生論註
〈道〉とは、無礙道である。『華厳経』に〈すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた〉と説かれている。〈ただ一つの道〉とは、ただ一つの無礙の道のことである。〈無礙〉とは、迷いとさとりとが本来別のものではないとさとることである。このように諸法不二の相をさとることが無礙の相である。
煩悩障眼雖不見大悲無倦常照我(ぼんのうしょうほうすいふけんだいひむけんじょうしょうが)「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども大悲ものうきことなく、常に我を照したまう」