ところが、そのことに人間に生まれて成長し、いろいろな人から聞かされ始めて知ったのである。
ひょっとかすると私の人生、無始より迷い続けてきたこの業魂が今生で人間として始めて出会った南無阿弥陀仏なのかもしれない。
だから信じられないし、受け入れることが全く出来ないのではないか。
ところが事実として南無阿弥陀仏はすでに私に届いている。
そのことを何度も何度も教えていただいた。
そして私というものはどういうものかも一緒に教えていただいた。
受け取る器はザルで、流す法は海のごとく。
雨あられのように法を聞きながら、傘を差して逃げ回っている。
本当に、仏教を聞くのが嫌なのが私の本性である。
よくぞここまで導いてくれたものよ。
文句は一切出来ない自分である。
そのことに気づかされたのが一番大きいと思う。
阿弥陀様は私の持っていない清浄の心をもって私を救おうとされているのです。
私は何も持っていないのに、また、何も持てないのに何か持てるように錯覚しているのです。
最初から最後まで空っぽで、業の塊でしかないのです。
そこに清浄の塊のお念仏が入ってきたって、受け取ることさえ出来ないのです。
「はい、あげるよ、もらってくれ。」と手をさしのべられたら、「ありがとうございます。」だけでいいのにあれこれ計らうのが私の姿です。
だから、計らわずに受け取るだけなのです。聞即信、そのまま聞いたのが信です。そして、そのまま、聞かせてもらっているのが信です。
ずっと聞いていなければいけないのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。
ただ、ずっと聞くべき教えだと言うことです。
だって、受け取る方はザルですから、何か受け取ったような気になっているだけで、結局何も変わらないのですから。
大きく変わるのは、私がザルだったと言うことに気づくことでしょうか。
とにかく、先手は阿弥陀様、後手は私なのです。
如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。(教行信証)