とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

無帰命安心

浄土真宗の信心を諮るために安心論題があります。

そこの中に帰命について「帰命義趣」という題で帰命のことがしっかり説かれています。それをすべて書くのは大変ですので浄土真宗の要の帰命はどういうものかを以下に示します。

 

帰順教命=阿弥陀仏の仰せに信順すること。

 

阿弥陀様の誓い、願いをそのまま受ける、受け取る、信ずる、従う、お任せする等等。 

単純明快なのですが、このことについて身口意の三業での帰命が必要だとか、十劫の昔に助けは成就しているのだから御念仏を喜べばいいという三業帰命や十劫安心などの無帰命安心あります。

 

「唯信鈔文意」では 、
即得往生は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御みのりなり。これを即得往生とはもうすなり。

と書かれ、不退転に住する、不退転になると言われています。

そこで何も気づきが無いと言ったら嘘でしょ。

 

「執持鈔」には、 

平生のとき期するところの約束、もしたがわば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば、平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。平生のとき不定のおもいに住せば、かなうべからず。平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし。

[嘉暦元歳丙寅九月五日、老眼を拭ひ禿筆を染む、これひとへに衆生を利益せんがためなり。]

                            [釈宗昭五十七]

  [先年、かくのごとく、予、筆を染めて飛騨の願智坊に与へをはりぬ。しかして、今年暦応三歳庚辰十月十五日、この書を随身して上洛。なかの一日逗留、十七日下国。よつて灯下において老筆を馳せてこれを留む、利益のためなり。]                              [宗昭七十一]

 

個人的には、以下の文章が本当に有り難く頂きます。なにせ老眼をぬぐいならがらも何とか皆さんに分かったもらいたいの思いからこれを書いたんだと読ませて頂けるからです。それだけのものがありますよと言われています。

老眼を拭ひ禿筆を染む

 

また、「改邪鈔」には、

真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。

「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよとなり。

「立」といふは、すなはち、弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。

 

とにかく捨てよ、すべて捨てよと言われているのです。いままで学んだ事も蓄積した経験もすべて捨てよと言われています。ある意味自己否定をせよと言われているのと同じ感じがします。そして、捨てさせられた世界があると読ませて頂きます。

 

最後に、「信疑廃立」です。

安心論題には、「信疑決判」として取り上げられています。最後は、ここで信心をハッキリしたのか、まだしていないのかを判断します。

あくまでも阿弥陀様との関係をとことん突き詰めています。

 

「やさしい安心論題」には、

今、現に与えられている救いの法を信受するか否かによって、悟りの世界に入るか迷いの世界にとどまるかが別れる、というけじめを明らかにすることが、この「信疑決判」()という論題です。

 

以上のように信心を頂いたのか頂いていないのか、それともそんなことは問題で無い境地まで出たのか出ていないのか、いずれにしても私の後生の問題です。

個人的には、人それぞれであるが「あ~、そうであったか。」という気づき、目覚めがあると思うのです。

皆さん、どうか阿弥陀様に聞いてみて下さい。

 

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