ご信心を頂いたと思っても何も私自身は変わりません。
つまり、元のままで、凡夫なのです。
いただいたと思う人の中には、すべて分かったと勘違いする人もいます。
あるいは自分が悟りを開いたのではないかとも。
でも、お聖経にあるとおり三悪道に落ちる者がお目当ての本願なのです。
死ぬが死ぬまで何一つ変わらない、全くの凡夫なのです。
ですから、親鸞聖人も以下のように言われています。
「「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。」( 一念多念文意)
たとえご信心を頂いても人それぞれの脳みそのレベルでご法話を頂きますので、その受け止め方は千差万別億差兆別です。
中には間違った解釈もあると思います。それに歳を経れば頭もぼけてきます。
記憶力も低下します。間違いも起こします。
ご信心を頂いた人かもしれないと思っても勉強されていない人は何も変わりませんし、ご信心が無くても勉強されている人は素晴らしいのです。
『一枚起請文』に、
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚禿の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべしと示されています。
また、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と末燈鈔に法然上人のお言葉としてあります。
心しなければなりませんね。ご信心を頂いていると勝手に思っている「とくよしみね」でした。