とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

我が物にしたい!!

私は貪欲です。
何でも欲しいものは私のものにしないと気がすみません。
手にいれるまで諦めず努力します。
しかし、手に入れることが出来ないものも当然あります。
手に入れることが出来ない場合は、いつまでもうじうじしています。
しかし、それも時間が解決してくれます。
そんなことを繰り返して人生が過ぎていきます。
そんな人生を何度繰り返しているのかわかりません。
わかる知恵がないのです。
執着するのは今生ごとばかりです。
それに、さるべき業縁がくれば何をするかわかったものじゃありません。

後生の解決も同じです。
とにかくはっきりさせたいしかありません。
本当に後生があるのか無いのか全く分からないのにです。
たまたま、後生があると言う教えを聞いてしまったからなのか。
恐怖心を植え付けられたからなのか。
後生、死後の世界の行き先が分からず、不安でたまりません。
地獄に行くとお釈迦様が言われたと聞けば本人になんとなく悪いことばかりしている自覚もあります。
だから、なんとか逃れたいと思います。

しかしです。
何で後生をはっきりさせたいのでしょうか。
今生が苦しいから、空しいから、寂しいから、孤独だから、死にたくないから、地獄に行くと教えられたから、・・・・。
どうしてそういう感情が出てくるのでしょう。
実際、死の恐怖などどこ吹く風のように生きている人がほとんどなのに、どうして後生が気になるのでしょうか。
私にあるものは何か。
様々な感情が渦巻いて訳が分からない状態です。
たぶん、煩悩しかない私なのにです。
欲と怒りと愚痴しかない私にです。
不思議ですね。

何か目に見えない力があると思わずにおれません。

阿弥陀さまとのご縁もどうしてでしょうか。
他の仏さまでも構わないのではないかと思いますが、たまたま阿弥陀様だったのか。
なぜ、仏なのか、神ではいけないのか、もっと他のものは無いのか。
それでも、親鸞聖人のお言葉より、まわりに信心を頂いた方を見るに付け、私もああなりたい、の一心で御法にしがみつきます。
結局、人の持っている物を自分も欲しいと思う心しかありません。

阿弥陀様は誓われます。
私が何もわからず永遠に六道を回っているのを見られて不憫でならなかったから。
他の仏さまの救いに漏れたから。
だから必ず救うと誓っておられます。
その事は教えていただきましたが、全く自分ではわかりません。
六道を経めぐってきたと言われますが記憶にありません。

その阿弥陀様を全く信じていません。

それでも教えを聞かせていただくとそうかもしれないと思う自分がいます。
なんとなく仏の教えを聞かせていただくと満足するというか安心する自分がいます。
いや、思わされているのかもしれません。

いずれにしても私の中から出てくる感情なのでしょうか。
これを宿業、あるいは宿縁と言わずしてなんと言いましょうか。
アジャセ王の無根の信はこういう心から生まれているのです。

救いの御法、南無阿弥陀仏を教えて頂いたら、今度はそれを我が物にしたいと執着します。
どうしたら我が物になるのか必死になります。
とにかく早く自分のものにしたいと努力を続けます。
やけになって悪態をついたり、自分は駄目だと思っても諦めきれません。
根深い執着が原動力となって努力します。
5年でも10年でも20年でも30年でも粘ります。

自分を捨てることが出来ずに泣くこともあるでしょう。
全く無い人もあるかもしれませんが執着の心と戦う事になります。
我が物にしたい・・・・・。

この心こそ、阿弥陀さまの狙いかもしれません。
これしかないのです。


その心を捨て置いて阿弥陀様の御本願を聞かせてもらう、聞即信です。

そっくり、そのまま、落ちるそのままです。



南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏