龍樹大士出於世, 悉能摧破有無見
龍樹菩薩が摧破された有無の見について理解することは、まず仏教に入るための心構えのような気がする。
つまり、死後が有る、無いにかかわらず、そこから抜け出す道を示されたのである。
そういう道があるぞと教えてくださっているわけであるから、では一度出てみたいと思うのが人情というものではないか。
私もそういう世界があると(親鸞会では絶対の幸福と言われたが今は、それとはちょっと違う気がする)教えられ、では目指そうと思った口である。
自分一人は助かろうと我利我利の亡者である。
蜘蛛の糸のカンダタと同じである。
我が身の犯した罪など全く考えず、必ずお浄土に行けると信じて求めだしたのである。
ところが、いつまで経っても抜け出られないので途中であきらめかけていたとき、私の白道に出会って次の蜘蛛の糸を見つけたわけである。
蜘蛛の糸の綱渡りをしたわけだが、次の蜘蛛の糸は正しく私がダメであることを教えてくれた。そして、結局ダメだったわけで私の力で何とかなる後生では無いと言うことに気づかされるのである。
そこで、有無の見を離れるのである。
あ~、後生も今生もすべて今に凝縮され、死も生も今しか無い、今の連続なのかと気づかされたのである。有るでも無い、無いでも無い、ただ現在が全く無常の世の中であることを教えてくださったのだ。
始まりも無く終わりも無い、そこに今という時に今いるのである。
明日のことはさっぱり分からない、昨日のことなど過ぎてしまった。
これからどうする。
空っぽの自分に南無阿弥陀仏が響いている。
それで本当に後生大丈夫かと問われても私が何とか出来る問題では無いから、阿弥陀様に任せるしか無いという答えしか出来ないのである。
そして私の意思とは無関係に南無阿弥陀仏が聞こえるのである。