そもそも信罪福心とは何か。
罪を作れば悪いところに行くのではないかと思い、良いことを行えば良いところへ行けるだろうと、因果の道理を信じ、我が思いや行為の力によって信心を得ようとする心を言います。
自分が救われないのは自分に問題があるのだと思うのが信罪の心です。そして、どうすれば救われるのかということを自分の力で考えて行動することが信福の心です。
聞法の心構えとして、この心にこだわらないことが必要だと思います。とはいえ、どうしても私が早くご信心を頂きたいという気持ちを抜きにご法を聞くことは本当に難しいと思います。
そこで、肩の力を抜いて、静かに聞いてみる。
何を言われているのか、どういう意味なのか、言葉の意味を理解しているのか、そういうところに焦点を当てて聞いてみる。
そうすると何か気づかされることがあります。
たとえば、
「あ~、私は信心が頂きたいと思っているが、ただ安心したいだけだな~。」とか、「地獄一定と言われているのでそこから抜け出したいだけだな~。」とか、「皆のように喜びたいだけだな~。」とか、「信心決定して偉そうにしたいだけだな~。」とか・・・。
結局、私の心を満足させようとしているだけで、ご法の内容など聞いているようで全く聞いていない自分に気づくことがあるのです。
じゃあ何を聞いているかというと、本当は全く何も聞いていなくて、聞いてるフリをしているだけで、本当の自分はご法から逃げて隠れてほくそ笑んでいるのです。
気づかないうちに自分で自分をだましている。
結局、私の心にだまされ流転輪廻していくのです。
七里恒順師は以下のように言われています。
『御一代聞書』の上には、「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく生死に流転しけるとは、ききわけてえ信ぜぬもののことなり」とも御示し下され、とかく己が機のよしあしにこころをとどめ、定散自力の根性をすつることができぬ。(七里和上法話聞書より)
最後は「自力の執心」です。
こいつはくせ者ですよ。
よくよく注意深く見ていく必要があります。
・・・信罪福心の元・・・
もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。(仏説無量寿経下巻)