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とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

人生の目的

今回は人生の目的について考えてみます。

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先人達の偉大な人生は私にとって大きな指標です。先人は自分の人生を賭けて真実を求めておられました。なぜ生きるのか、どう生きるのかについて探求しておられます。しかし、答えを明確に示したお言葉は本当に少ないです。私は救われた、もう思い残すことはないというお言葉を聞いたことがありません。

たとえば以下の通りです。

 

ソクラテス

汝自らを知れ

 

魂の探求の無い生活は、人間にとって生きがいの無いものである。

 

孔子 

朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり

 

アインシュタイン

 宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である。

 

ガンジー

 死ぬ覚悟が出来ていれば、人は自由に生きられる。

 

トルストイ

人生の意義を探し求めようとしない者がいるならば、その人間は生きながら死んでいるのだ。

 

鴨長明

行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶ泡沫は、且つ消え、且つ結びて、久しくとどまりたるためしなし、世の中にある人と住家と、またかくの如し。

 

他にも沢山あります。

では人は何のために生きているのでしょうか。

何のため?

芸術家、社長、教師、芸能人、スポーツ選手・・・。

自分のため、家族のため、他人のため、そのほか何がありますか。

自分のためとは何か、

 仕事、家庭、名誉、他に何があるでしょう。

家族のため、

 見返りを期待していませんか。

他人のため

 同じです。見返りを期待していませんか。名誉、地位、お金ですか。

 

では、人生の目的は何でしょう。

何のために生まれてきたのか、何のために生きるのか、お金のため、安心した生活をするため、それも大事ですが、本当にどうして生まれてきたんでしょう。

どなたかハッキリ答えられる方はおられるでしょうか。

神の召すままか、仏の言われるままか、それともアラーの神に救われるのか。

私が死んでいくその先はどうなるのか。

その不安を取り除くためか、それとも生きている今を満足して生きるためか。

先人達はどうして死を克服していったのか。

そもそも死を問題していなかったのか。

 

今の、不安、死または死後(後生)に対する暗さ、それは自分の心をどうごまかしても晴れない、その心は他人には隠せても、自分を絶対にごまかすことは出来ない。

 

貴方は、何のために生きているのですか?

 

さて、貴方は何の教えを聞くつもりですか。それとも聞く気もありませんか。

考えたって仕方がありませんか。そうやってあきらめていませんか。

 

私は何の間違いか仏教の教えと出会うことが出来ました。

仏教は、釈迦牟尼仏の教えです。

死を超越した教えです。聞く気がありますか。

 

 さて、人生の目的を明確にどなたか答えられるでしょうか。

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まあ、親鸞会的質問攻めですね。

これらの言葉は刃物のように私に切り込んできます。そして、逃れられないようにがんじがらめにさせられます。

その上で、仏教では「人生の目的」が説かれていると続きます。

さらに親鸞聖人は信心一つで救われると説かれていますと言います。

強迫観念を植え付けていますが、ある意味真実ですので反論が出来ません。

 

しかし、何もかも投げ捨てて人生賭けて求めるべき教えに出会うのは並大抵のことではありません。運良く仏教に出会えても、聖道門では大変なことです。ほとんどの人が仏教以外の宗教でしょう。

 

では、ここで一つ設定をしてみましょう。

私は親鸞会に出会う前の自分です。その自分に問うてみます。

人生の目的は何ですか?

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残念ながらやはり答えられません。

 

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当時の自分は、いくら考えても分からなかったので、結局人生は思い残すことなく自分のしたいことをするぐらいにしか思っていませんでした。

自分が充実した人生を過ごすことが出来れば良いと思っていました。

一方で子供の頃は仏教で言われる悟りとは何か興味はありました。

心の平安を求めていました。完成された人間になれるのではないかと思っていました。しかし、年を経るにつれそのことに対する疑問を自分に問うことを止めてしまいました。

そして人生の岐路に立ったとき、親鸞会との出会いがありました。

強烈なインパクトでした。

人生に目的があった。生きる意味が分かった。嬉しくて泣いていました。

やはり「親鸞会的人生の目的」への誘導はある意味現代の仏教と縁の薄い人にとっては正解なのかもしれません。

しかし、残念なことに教えが間違っていました。そのことについては、他のブログで沢山書かれていますので省きます。

「人生の目的」という言葉は本当に重い言葉だと改めて思います。

この言葉を使うことは大きな責任が伴います。現実に親鸞会で傷ついて心を病んでしまった人もいます。今でも恨んでいる人もいるでしょう。

その人達に救いの手を差し伸べることは親鸞会はしませんでした。

法友の屍を乗り越えて仏教を聞けとしか教えられませんでした。

「人生の目的」という言葉を弄んだとまでは言いませんが、正しく使ってはいないと言えるでしょう。

 

映画「おくりびと」の原作「納棺夫日記」を書かれた青木新門さんがNHK「こころの時代」で話していました。人生の目的という言葉ではなく、「死」をどう受け止めるのかと。

「死」を受け入れた先に「生」が輝くと言われていました。

とても暖かい言葉使いでした。それでも十分「死」を解決することが大事だと言われていることは理解できました。

また、すべてを捨てて仏教を求められる人は良いでしょうが、それを出来ない人がほとんどでしょう。しかし、今だにすべてを捨てて人生を賭けて求めるべきものが人生の目的だと強要されると、そう思い込んでしまいます。

 

やはり「人生の目的」は「後生の一大事の解決」であると言う以上は、正しく教え導く責任が説く人にはあると思います。仮に「後生の一大事が解決」したとしても生きて行かなければ成りません。そうするとその後の「人生の目的」は何なんでしょう。妙好人と呼ばれる人のように人を導くことが「人生の目的」となれば、「人生の目的」は人を幸福に導くことになります。

そう考えると「人生の目的」は「後生の一大事の解決」一つとは言えないのではないでしょうか。

では別の言い方ではどうでしょうか。

たとへば「人生の目的」は「後生の一大事を解決し、一人でも多くの人を幸せな世界に導くこと」となります。

 

今回は、「人生の目的」という言葉にこだわってみました。特に結論はありません。また、「人生の目的」は共通だとしても、それを達成する方法は、たとえば「後生の一大事の解決」のための方法は一人の人から聞法するだけでなく、さまざまな方法があります。さらに普段の生活の中でいくらでも聞法出来ます。それを一つの方法にこだわって頭をかちかちにするのは非常に残念ですね。今はそう言える自分が幸せです。

言葉は命だと言われています。使い方は十分注意したいものです。