家族から教えてもらったのですが最近「断捨離」がはやっているようです。
「やましたひでこ」さんという方が「断捨離」という本を書かれたのが最初だそうです。
wikiには以下のように書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
- 断:入ってくるいらない物を断つ。
- 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
- 離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
著者は「断捨離」によって身の回りをかたづけていく方法として利用しています。
身の回りの物を毎日一つずつ捨てて行くのです。どんなものでも良いので一つ捨てる。
やってみると結構楽しく最初は出来ます。
私も家にある不要な物を捨てて行きました。これから5年10年と経っても使わないだろうと思われる物はどんどん捨てて行きます。
段々と捨てる物がなくなってくるのですが、そこからがまた紙切れ一枚でも捨てて行くのです。まだまだ捨てる物が沢山あると思うのですが、最近は停滞気味です。
それでも毎日一つは頑張ろうかなと思っているのですが、いつまで続くか分かりませんがとりあえずやっています。
ただ、これを突き詰めていくと最終的に自分と向き合う、自分の人生や生き方も変わってくるような気がするのです。
そして、最後は自分の執着と向き合う怖ろしい教えだなと思います。
怖ろしいと書くと止めた方が良いと思われるかもしれませんが、そうではなくて仏教的な思想が根底にあり、我が身と向き合わされるように出来ているのではないかと思うと結構深い教えではないのかと思うのです。
「やましたひでこ」さんはそこまでは考えていないようなのですが、ヨーガの教えはすべて悟りに直結していますので、そこには仏教思想が入ってきても何も不思議は無いと思うのです。
蓮如上人は御文章で何度も信心決定のためには「雑行雑修自力の心を振り捨てて弥陀をタノメ」と言われていますが、断捨離と同じく捨てることはある程度自分で行うことは可能です。
雑行は基本的に捨てることが出来ますのでまずは雑行を捨てて行くのでしょう。雑修はちょっと難しいかもしれません。なにせ自力の心を交えずに御念仏を称えよと言われるのですからやはりこれは「弥陀をタノム」しかないのでしょう。
最後は「弥陀をタノメ」が一番難しいのですが、やはり「タノメ」と言われるのですから、こちらが出来る最後の行為かもしれません。
阿弥陀様のお任せするのは自分です。断捨離も捨てるのは自分、結局捨てることは自分でしなければならないのかもしれません。
そうでなくても死んで行くときは、すべてを捨てていくのですから。
自分で捨てるというと自力ではないかと言われるかもしれませんが、死んでいく時と同じで捨てることは自分ではどうしようも無いのですが、やはり最後お任せするのは自分ではないかと思うのです。お任せも自分をすべて阿弥陀様にまかせるわけですので、ある意味自分を捨てることと同じではないかと思うのです。
「死ぬ時節には死ぬがよく候」と良寛和上は言われています。
おまかせの心境ですね。
断捨離を少しでも実践してみるといろんな事が少しずつ分かってくるかもしれません。本当に大事なことは何なのか。そんなことに気づかされるかもしれません。
やられたことの無い方は一度試してみてください。
でも捨てるのって結構心が引っかかるんですけどね。