私の母親は既に亡くなっていますが、子供の頃よく言われたことがあります。
「犬や猫に産まれてきたらそのへんで、ワンワンと吠えていたり、ニャーニャーと鳴いていたりしてこんな生活出来ないぞ。」と。
その時、私はそうだなと思う一方、でも犬や猫もあれはあれで幸せではないかとも思いました。
勉強もする必要も無く、ご飯もきちんと食べられるわけだし(うちの飼犬について)、ただ鎖につながれて自由じゃないのはつまらないかもしれないが、猫にいたっては自由に遊んでいるわけだからもっと幸せかもと。
しかし源信僧都は横川法語で以下のように述べられておられます。
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「横川法語」
それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。
現代語訳
生きとし生けるもの全ての中において、三悪道(地獄の世界・餓鬼の世界・畜生の世界)を避けて、人間に生まれるということは、大変希なことなのです。
社会的な地位は低いと言っても、畜生より劣ると言うことではありません。
家が貧しいと言っても、もがき苦しむ餓鬼ではないのです。
心の中に思うことが実現しないと言っても、地獄の苦しみには比べようもありません。
生活の中での不満は、自分が愛おしいという証拠なのです。
多くの人が、浅ましい心根を持っているということは、本当の幸せ(命の尊さに気づく)を願っていると言う証拠なのです。
人間に生まれたことを喜ぶことが大切です。
信心は浅いかも知れませんが、阿弥陀仏の本願があまりにも深いので、タノメば必ず浄土に往生出来るのです。
念仏を称えるのは気の進まないことでしょうが、唱えれば、必ず来迎(臨終の時に、阿弥陀仏のお使いに迎えに来ていただける)に出会えるのです。
阿弥陀仏の功徳は莫大なのです。
ですから、阿弥陀仏の本願に出遭うことを、大切に喜ぶべきなのです。
また妄念は、本来私たち凡夫に備わったものです。私たちは妄念の外には別の心などないのです。
臨終の時までは、私は妄念の凡夫なのですと自覚して、一向に念仏すれば、来迎に出遭って、蓮の台(うてな)に乗る時にこそ、妄念をひるがえして、さとりの心を持つことなるのです。
妄念を持ったままで称えている念仏は、よごれに浸まない蓮のように、必ず浄土へ往生するのですから、絶対に疑ってはならないのです。
妄念があると言う事実を嫌わないで(妄念あるがままで)、むしろ、真実の信心が浅いのだと嘆いて、心をしっかりと保って、南無阿弥陀仏の名号を唱えることが大切です。
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確かに犬や猫に産まれてきたら御念仏は称えられなかったし、信心について知ることも無かった、生きる意味も分からず、ただ、生死を繰り返していただけだなと思います。
幸せが何かも分からず、空しいとも何も分からず生きていたのでしょう。
やはり人間に生まれ、仏法に出会えて良かったと思います。
ところで源信僧都のお言葉ですが、やはり何処にも後生の解決のために善をせよとはありません。
どこかの先生の教えとは全く異なることがはっきり分かります。
また、なぜ生きて行かなければならないのか、何のために生きるのかも答えが書かれています。そしてどうすれば良いのかも答えられています。
御念仏しながら、そのまま聞くだけだなと聞かせていただきます。
臨終来迎のことも書かれていますが、凡夫の私には関係のないことです。妄念妄想のまま称えさせていただくだけなのです。