みそみそさんからご質問を頂きました。
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みそみそ
みそみそさんからご質問を頂きました。
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みそみそ
一月三十一日、ライブで皆既月食を見ました。
次は三年後と言われていますが、天候によるので見ることができるかどうか分かりません。
今生最後の月かもしれません。
こんなにまじまじと月を見たのは初めてかもしれませんが、きれいな月でした。
とても大きくまるで落ちてくるのではないかと思いました。
寒かったので足踏みしながら見ていましたが、あまりの寒さに最後は部屋の中でライブ映像をみていました。
一説によるとスーパームーン、ブルームーン、ブラッドムーンの三つが重なったため百年後とか二百数十年年後にしか見られないそうです。
月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月
詠み人知らず
今この瞬間に見る月、
今見ている月が今の月なのです。
味わい深い歌だと思います。
現代はテレビやラジオ、それにスマホなどがあり、ゆっくり月を見ると言うことはあまりないのかもしれませんが、月見はなんだか気持ちが和らぎます。
昔の人も月を見て楽しんでいたのでしょう。
月を見ながら何を思うのか、私はろくな事は思っていませんが不思議な気持ちにはなります。
なんだか月を見ながら日本酒をゆっくり飲みたくなるものです。
そういう日もあって良いのかなと思います。
今月9日に嶋田久義さんが亡くなりました。大変残念に思います。
役割を終えてお浄土へ帰って行かれました。
最後は「何も思い残すことは無い」と言われたそうです。
この世に生まれたからには必ず死なねばならないのが定めです。
だからこそ何のために生まれてきたのか、何をすべきなのか非常に大事なこととなります。
私の知り合いがガンの手術を終えて復帰し、暫くして一緒に食事をしたときに「人生に思い残すことはないか」と聞かれたときがありました。
すでに阿弥陀様のご縁に遇わせていただいていたので「何も無い」と言い切ってしまって、「しまった」と思ったことがあります。
仏法者同士なら問題ないですが、世間一般の人との会話ではちょっと相手との関係を悪くしてしまう可能性があります。
それでもうまく会話がつながっているときなら良いのですが、唐突にこの言葉を聞くと迷ってしまう人がほとんどかもしれません。
その後、しばらくしてその知り合いは亡くなり私の「しまった」を挽回することは出来ませんでした。
高森顕徹会に所属しているときに「今生、何も思い残すことはない」と聞いたらそれこそ尊敬と共にその理由を聞きたくなります。
嶋田さんの場合は、親鸞会の人をターゲットに「私の白道」、「あなたの白道」によって多くの人を阿弥陀様へ導かれました。
私もその中の一人です。本当に「私の白道」を読まなかったらと思うと怖ろしく思います。大変な恩人です。
今も読んではいるが仏法を求める気にならない方や、今だ会を離れることが出来ない人が沢山おられることと思います。
一人でも多くの方が早く阿弥陀さまのもとに向かわれることを願ってやみません。
後生の一大事の解決を済まされた上での嶋田さんは、いつも自信一杯でした。
増井悟朗師を本当に尊敬され、浄土真宗の教義をいつも勉強されていました。私にもいろんな本や先生を教えてくださいました。
最後、病床でも分厚い六字釈の本を読んでおられたと聞きました。
一方で、高森顕徹会以外の方はどのように阿弥陀様とのご縁を結んでいるのか、それこそ千差万別です。個人的に思うのは阿弥陀様のなされるやりかたはそれこそ億差兆別で、私に理解できる方法とは限りません。むしろ「えーっ!!」と思う方法の方が多いかもしれません。
私は残念なことに高森顕徹会を経由しないと阿弥陀様とお遭いできない宿業を持っていたのでしょうが、世の中にはきっと沢山の方がいろいろな形で阿弥陀様とのご縁を結んでおられることでしょう。
そのことは西本願寺の出版している「大乗」などに沢山紹介されています。
それにつけても今の高森顕徹会長は、浄土真宗の教義からかけ離れたことばかり行っています。それに気付かれ一人でも多くの人を導いた嶋田さんの行動力には頭が下がります。これも嶋田さんの宿業かもしれません。
最初に「私の白道」を書いたとき、「誰かに殺されるかもしれない」と思ったそうです。それでも書かなければと思って書き上げたと聞きました。
求道中、身体の調子が悪い中、身体を引きずってご法座に参加された姿は一緒にいた人が見ていても悲壮だったそうです。そのかたは「今日、この人は死ぬな」と思ったくらいだったと言われていました。
実際、その日に迷いの根切れをされたと聞きました。
嶋田さんが、阿弥陀様に引きずられ「助けずにはおかない、必ず助ける」の御念力に押し出されたお陰で、南無阿弥陀仏が今の私まで届いているのです。
後生の解決は一人一人とは言われますが、先に行った者が後の者を導くように、大声で行くべき道を教えてくださいました。
西本願寺の中央仏教学院に学んで僧侶になることを夢見ておられたのに、それが実現せずに終わったことは少し残念に思いますが、後に続く者に沢山ご縁を与えたのは僧侶にならなくても非常に大きな仕事をされたと思います。
それこそ、思い残すことがない人生を生きられたと思います。
とにかく浄土真宗の今の時代のあだ花、高森顕徹会から一刻も早く抜け出して、阿弥陀様に遇っていただきたい、それが嶋田さんの願いでもあります。
今度は何処の世界でお会いすることが出来るか分かりませんが、嶋田さん、またお会いしましょう。ありがとうございました。
新しい年を迎えることが出来ました。
このブログも3年を過ぎ、我ながらよく続いていると思っています。
いつ止めるかわかりませんが、皆様、また暫くおつきあいください。
最近よく思うことで、内なる声といいますか「お前は、この世に何しに来た?」と聞こえてきます。
自分は何をしにこの世の中に生まれてきたのか、正月を何度も何度も繰り返して楽しく飲んで騒いで皆の健康を祈りながら、それでも時間は確実に流れ、時は移ろっていきます。
子供の頃いた叔父さんや叔母さんはどんどん亡くなっていきます。
一方で新しい命が生まれています。
自分も歳を重ねどんどん老化していきます。止めることは出来ません。
小野小町じゃないけれど花の色が移り変わっていくように人生も移り変わっていくのが定めであり事実です。
今という瞬間しかなく、過ぎ去った過去を繰り返すことは出来ません。
とにかく生まれてきてしまったのですから生きるしかないのですが、生きている間にいろいろ考えるようになってきます。
成長と共に周りを見ながら成功や幸福をどうしたら得られるのかそれだけを一生懸命考えるようになります。
自分の煩悩を満足させるためにと考えるのですが、どもうそれで満足出来るとは思えないと思ってしまう自分と向き合うことになります。
本当にこの人生、皆がしているような生き方で良いのか、悩んでしまいます。
悩まない人の方が本当は多いのかもしれませんが、私は壊れない幸福というものを求めてしまいました。
子供の頃は大人になれば完成された人間になると思っていました。
心の平安、何ものにも動じないそんな心をもった人間になれると思っていました。
その心を手に入れれば強くたくましく生きられるのではないか。
今考えてみると、何ものにも動じない心は死んでいるか、それとも悟っているかのどちらかでしょう。
とにかくそう思わされるのも宿縁なのでしょうね。
出家する人であれ在家でいる人であれこの世が苦しい世界だと思った時点で、仏というか何か普遍的な力によって気づかされているのかもしれません。
無常を無常とも思わない生活の繰り返しで、やはり無常を感じずにはおられないように仕向けられている世界が人間界なのでしょう。
この世の中に真実と呼べるものがあるのか、無いのか、そんなことを考えても仕方が無いのですが、考えずにおられないそういう自分はおかしいのではないのか、などなどいろんな人が人生に悩んでいらっしゃるのは事実です。
私はあまり好きではないですが椎名林檎の歌の歌詞は、そのことを強く感じさせます。
そして、それでも真実と呼べる教えを探そうとするのは目に見えない力が働いているからとしか思えないのです。
阿弥陀様は、光明無量、寿命無量の働きによって私を救おうとされています。
光明と寿命の無量の働きを「阿弥陀」と名付けられたと言われます。
たまたま、その働きに「阿弥陀」と名前を付けただけかもしれません。
なぜ「阿弥陀」なのか、その音にどんな意味があるのか、アミターバあるいはアミターユスというサンスクリット語の音にどんなことが隠されているのか。
アミターバ、アミターユスは光明無量、寿命無量の意味があるそうですが、その意味ではなく「音」にどんな力が隠されているのか、なぜアミターバなのか不思議としか言いようがありません。
別にアミターバではなく、バババーとかドドドーとかガーンとかそういう音でも良かったのになぜアミターバという音なのか分かりませんが、お釈迦様がそう言われたのですからアミターバ、アミターユスが「阿弥陀」さまでありそれが事実です。
そしてその「阿弥陀」という仏に二つの力があると教えてくださいます。
そのひとつ、「光明」は光です。光はものを明るく照らし出し、そのものの姿を明らかにします。
言い方を変えれば分からないものを正しく見えさせると言えます。
もう一つ、「寿命」は続くと言うことです。
ずっと続くと言うことは、果てしがないということで、働き続けるということです。
切れ目無く働き続くということにより私に何かを知らせようとされる力があると言うことです。
この二つのお力により私が南無阿弥陀仏と出会うことが出来るのです。
また、仮に自然の力を「阿弥陀」としたならば、この宇宙全体が「阿弥陀」と言えないこともありません。
この宇宙は光が至る所にあり、また、永遠に続いています。
ひょっとかするとこの世界を動かしている元、永遠を司っている力が「阿弥陀」かもしれないと思うことがあります。
また、その「阿弥陀」の力が南無阿弥陀仏の六字の御名号となって私を呼んでいます。
そうお釈迦様が教えてくださったから南無阿弥陀仏を知ることが出来たのですが、しかし、一方でこの南無阿弥陀仏に今遇わせて頂いている人と、そうで無い人がいるのが事実です。ただ、この事実は実は私の頭で考えた事実であって本当かどうかはまた、闇の中です。
これまでの人生経験から出会いがあった場合と無かった場合の経験を元に判断しているだけです。
今の私にはこの南無阿弥陀仏があって良かったとしか思えないのですが、お釈迦様は私の能力を見通してこの南無阿弥陀仏があることを教えてくださったのかもしれません。
これしか、南無阿弥陀仏にしか私に「真実」と向き合わせる力は無いと判断されたのでしょう。
そして、あらゆる出会いや経験によって、それを何度も何度も、何生も何生も繰り返し、待って、待って、待ち続けておられるのが阿弥陀様なのかもしれません。
やっと南無阿弥陀仏と出会うことが出来たと思っていても、先手の阿弥陀様のお力が無ければ出会うことが無かったことでしょう。
この出会いが「真実」との出会いなのかどうなのかさえ私の力で判断できないのにも関わらずです。
YOUは、(お前は)この世に何しに来た?
お知らせです。
あなたの白道 の本が出来たそうです。
全部読んでいませんがブログとは多少内容が変わっているようです。
欲しいかたは あなたの白道 のサイトにある嶋田さんのメールアドレスに連絡してください。
よろしくお願いします。
追記
一冊800円、送料込みで1000円です。
内容は、ブログのあなたの白道とは異なります。
基本的に仏教と浄土真宗の正しい教えを書かれています。
興味のある方は是非読まれると良いと思います。
正しい真宗の教えはこういうものだったのだとあらためて思います。
連絡先は以下の通りです。
住所 〒 918-8134
福井県 福井市 下莇生田町 27-1-32
先日、高森顕徹会の講演で以下の質問が演題となりました。病院の先生方が施主として質問されたそうですが、本当にこのことが聞きたいことなのか疑問に思います。
高森顕徹会のことはあまりブログに書かないのですが、最近の講演内容があまりにひどいので書かずにおれませんでした。
とりあえず質問と質問に対する回答を私なりに答えてみます。
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質問
「映画「なぜ生きる」で、「なぜ生きる」の答えは、大悲の願船に乗ることだ、とありましたが、なぜ大悲の願船に乗ることが、生きる目的となるのか、その理由を詳しく教えて下さい。」
回答
大悲の願船に乗ること = 阿弥陀さまの救いに預かること
生きる目的 = 後生の一大事を解決する事
生きる目的は後生の一大事を解決する事とした場合、阿弥陀さまの救いに預かることは、すなわち後生の一大事を解決する事なのだから、これが人生の目的と言ってもいいのです。
質問の回答としてはこれで終わりですが、ちょっと解説です。
大悲の願船とは、阿弥陀仏の御本願のことですので、私を必ず救う、南無阿弥陀仏で救うという阿弥陀様のお誓いです。
それに乗ると言うことですので阿弥陀様に救われると言うことです。
生きる目的は何なのか。
この世に何をしに生まれてきたのか、必ず死ななければならないのに。
キリスト教では神の国に行くことです。イスラム教も死後神に召されることです。
真言宗では即身成仏です。
お釈迦様は六道を出よと言われています。
迷いの世界を出よと、そして仏を目指せと。
真宗では、後生の一大事を解決することにより仏に成ること(往生成仏)が定まると教えます。
後生の一大事解決するためには、阿弥陀様の御本願をそのまま聞く、それ一つです。
現在ただ今、阿弥陀様は私を必ず救うと南無阿弥陀仏となって呼んでおられます。
出離の縁のない私を必ず救うと私に呼びかけておられるのです。
命をかけて私の腹底から呼んで呼んで呼び続けておられるのです。
「早く来い、今すぐ来い、必ず助ける、落ちることを心配するな、命かけて助けてやる、我にまかせよ、南無阿弥陀仏」と。
そのお心を聞かせていただいたら、阿弥陀様に頭が下がるのです。
私は南無阿弥陀仏と答えさせていただくだけです。
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以上簡単に答えました。これだけの事です。
では、実際の回答はどういうものだったのか。
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成就文の即得往生 住不退転の説明とアニメを見せて善恵房と聖人の「体失・不体失往生」のとらえ方の違いの解説、そしていつものとおり聞く一つで往生できる。最後に、「なぜ生きる」の答えは、大悲の願船に乗ること、絶対の幸福になること。
(詳しくはブログ「信偽検証」2017.12.14を参照してください)
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最近はこのパターンが多いようです。
何を聞くのかの説明はいつもの通りありません。
結局、「わしの話を聞け」なのです。
そもそも質問の回答にも成っていません。本気で答えようとしていないのがよく分かります。
皆さん本当にこの話を聞いて満足出来るのでしょうか。
私はいつも不満でした。
なぜ聞けないのか、「なぜ生きる」の本を何度何度も読んでみましたが、結局訳が分からない、答えがないと思っていました。
それと同じ話を多少根拠を変えて話しているだけで、私がいた時と全く変わっていません。むしろどんどん退化しています。
残念ですがどれだけ高森会長の話を聞いても救われることはないでしょうね。
会員の退会のご縁を祈ります。
称名念仏とは、南無阿弥陀仏と口で称える口称念仏であり、阿弥陀様を讃談するお言葉です。
阿弥陀様の御本願は、簡単に言えば私に称名をさせてみせるというお約束です。
その称名によって私が救われていくのです。
ただ、そこには大事な「聞」があります。「聞」の抜けたお念仏は聖道門のお念仏と成ってしまいます。
経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。(『歎異抄』第十二条)
「お経やその注釈を読んで学ばない人たちは、往生することが定まっていないということ。これはまったく言うに足らない理屈である。他力真実を明らかにしている諸々のお経や注釈は、阿弥陀さまの本願を信じ、念仏を称えるなら、仏となることができると説かれている」
(私釈)
お経や注釈を読むだけでしっかり学ばない人は信心が無いというのは全く問題外の理屈である。お聖経には阿弥陀様の御本願を信じて、お念仏を称えるなら仏に成らせていただくとしか書かれていないのだから。だから勉強していない人は信心がないと思うのは間違いで、本願を信じてお念仏する人は必ず仏に成る。
ここに称え心は「本願を信じ」と説かれています。
どんな気持ちでお念仏を称えたら良いのか、などという疑問は自力一杯の姿そのものです。
では、どう称えたら良いのか。
それも自力の心です。
「本願を信じ」称えるお念仏とは、阿弥陀様の御本願をそのまま受け入れて称えさせていただくお念仏なのです。
ですから沢山称えたお念仏で何とかなるというものとは異なります。
また、お念仏に自力も他力もありません。自分で自力、他力と区別を付けているだけで真実の塊がお念仏であり、それが南無阿弥陀仏です。
だから、善導大師から法然上人、親鸞聖人、そして蓮如上人も称名念仏を勧められています。
観無量寿経には称えることにより私の罪科が消えると書かれています。
不思議のお念仏です。
蓮如上人は御文章でも御一代記聞書でもお念仏を勧められています。
ただし、御文章で勧められているお念仏は信後の報恩のお念仏ばかりです。
ただ、信心から沸いてでるお念仏は真実の塊であり自然法爾のお念仏であり、私の計らいを超えたあるがままの自然のお念仏なのです。
信心とは私の信心では無く阿弥陀様のご信心が私に印現されたものです。
たとえば太陽を私のものにすることは出来ませんが、太陽の光に当たっているわたしは太陽の光を受け、太陽そのものの働きをそのまま受けていると言えます。
その姿を俯瞰したとき、太陽と私は同期していると見えないでしょうか。
光がお念仏だとすると、私が光を受けてお念仏をしている姿は信心を頂いている姿そのものと言えます。
ところが私が称えているお念仏にけちをつけているのが自力です。
光の元にいながら、お念仏を称えながら「このお念仏は違う」と自分で思っているだけなのです。
だから、その心「自力」を捨てよと言われているのです。
創価学会では題目をとにかく称えろと言われています。
題目を称えれば幸せになると教えられます。
浄土宗も同じように称名を重要視します。
真宗は、称名念仏も大事ですが一番大事なものは信心と言われます。
信心正因のいわれです。
だから真宗ではとにかくお念仏をしなさいと言う人とそうで無くまず信心を頂きなさいと言う人が出てきます。
どちらも大事なことですが、お念仏を沢山称えてもそれで救われると思うのは大きな間違いであることはご承知の通りです。
そうは言ってもお念仏(=南無阿弥陀仏)によって救われるのですからお念仏をおろそかにすべきものではありません。
御本願も「乃至十念」と誓われています。
ですから、個人的には称え心など気にせず称えさせていただく事が大事だと思います。
松並松五郎さんのことを思い出してください。
お念仏を称えさせていただくところに「聞」のお心があり、そのお心を聞かせていただいたお礼が南無阿弥陀仏となっているのです。
阿弥陀様のお心聞かせていただくとは、南無阿弥陀仏を称えさせていただく事と同じだと思うのです。
阿弥陀様のお心とは南無阿弥陀仏のお心であり、「現在、ただ今、落ちるそのままの私を必ず救う」と「南無阿弥陀仏」となって私に届いている呼び声なのです。
お念仏は、私の想像を絶する世界からの呼び声なのです。
その世界から私に届いている御念仏と出会わせていただいたら、称えずにいられなくなります。
注:下品下生(観無量寿経)
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
御一代記聞書
勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。