高森会長について、皆さんはどう思われているのでしょう。
私は、親鸞会に入会した当時は、雲の上の人と思っていました。
たとえば、親鸞会で信心決定した人と比べても段違いの聖人のように思っていました。当時、学生部の人たちは蓮如上人以来の善知識であり、数百年に一度の人だから今生で必ず信心決定しないと永く無間業に沈むと言われていました。
ですので、会長を絶対視していたのは間違いありません。
なんか変だなと思っても会長の言われることだから間違いない、私の後生を一番心配されている人だから間違いない、親よりも私のことを心配されているのだと勝手に思い込んでいました。
ご法話でひどくアシスタントをしかり飛ばしているのも、嫌だな、変だな、何か違うなと思いながらも、会長がされていることだから間違いないと思いました。
あるとき、会長と同席した会議で私が思っていることと同じことを会長が発言されたときがありました。「あ~、私と同じことを思っているのか。」と思いましたが、何かとても変な気がしました。
どうしてかというと、私が思っていたことは詳しくは書きませんが、煩悩丸出しで人を何とか陥れようとする方法だったからです。
仏様の生まれ変わりの善知識が凡夫丸出しの私と同じことを考えているのはどういうことか理解できませんでした。
また、あるとき、本部会館でぼーと駐車場の方を見ているとピカピカの乗用車で乗り付けて颯爽と歩いている会長を見つけました。その後ろを専任講師が平身低頭でついて行くのが見えました。
何か変だなとその時も思いました。
それでも数百年に一度の善知識だから絶対に間違いは無い、おかしいことがあるとそれは、下の人が駄目だからだと思っていました。
「なぜ生きる」の発刊時には、最後この先が読みたくなるように肝心なところがぼかしてあると皆の前で会長は言いました。
その時も「ふ~ん、そうなんだ、でも、何か変だな?」と思いました。
そのほかにも細かいところで何度も違和感を感じたことを覚えています。
財施が大事と皆さんの前で風呂の話を何度か話されました。
風呂のお湯を自分の方に寄せるとお湯は反対側に逃げていくと。だから反対側に押しやればお湯はこちらに戻ってくるから、財施を大いにやれば何倍にもなって帰ってくると。
ま~、そうかもしれませんが、とっても違和感がありました。
財施のことより法施が先だろうと。
また、タケノコの食べ方について味噌煮のレシピを配られたときは驚きました。
何を考えているのか。それこそアホかと思いました。
それでも無二の善知識と信じていました。
まだまだありますが、本当に信じていたのです。
その化けの皮がはがれたとき、私は信じているものに裏切られた思いで、足下から何かが崩れていくのが分かりました。
俺は今まで何をしていたのだろうと。
家族に申し訳ない気持ちが最初に出てきました。
人を沢山傷つけたことを思い出し、苦しくなりました。
そしてこれからどうしたら良いのか、頭が真っ白になりました。
高森会長を恨んでいる人も沢山いるでしょう。私は恨むほどでは無かったので幸いかもしれません。私にとっては仏教を教えてくれた先生でもあります。
しかし、人はそれぞれの思いを持って生きています。
除名になった講師は以前こう言われていました。
「あのひとは異常な性格者であり、人間的な部分が欠落しているところがある。」と。今は本当にそうだなと思います。
親鸞会に今でも残っている人たちを思うと「一盲衆盲を率いて、火坑に堕つる」
と親鸞会時代に教えていただいた言葉を思い出します。
退会後、阿弥陀様の教えを頂き、高森会長に対しどうしても許せないことがあります。それは会員の後生をなんと思っているのかと言うことです。
一人でも多くの人を救おうとされるのが善知識です。なのに救いと全く関係ないことばかり会員にさせて今生が終わっていったらどう責任を取るのでしょう。
人のことを言える自分ではありませんが、高森会長の業の深さはいかほどか本当に恐ろしく思います。