前回の「ツレがうつになりまして。」を書いてからやはりそうだよなと思ったことです。
人は結局「独り」で、その中で「一人」で生きているのが本当の姿なんだと。
人間界とはそういう世界です。
有無の見に支配され真実を真実とみることが出来ないそんな迷った存在にとって「私」は他の誰でも無くただ「一人」であり同時に「独り」なんだと言うことに気づかされるとこんな言葉が出てきます。
「私の気持ちは誰も分かってくれない」
「私独りが不幸だ」
「他のみんなは幸せそうだ」
「この世の中で私一人が正しい」
「他の人の考えは間違っている」
「あいつは馬鹿だ」
・・・・・・
その世界から出ることが出来ないので同じような感性を持った人を見つけて仲間を作りそこにいれば安心出来るのです。
私という世界、私の造った宇宙にいれば安心です。
共感できる部分だけ入ることを許し、気分でその範囲はころころ変わっていきます。
共感できない部分はかたくなに扉を閉じて誰も入れません。
このことに気づいていればまだ良いのですが、ほとんどの人はそれが絶対正義という言葉で固められているので他人だけでなく家族でも軋轢を生む原因となっています。
「思い込み」という言葉で表すこともできます。
その中で彼が言っていたことが印象的でした。
「有る番組(サンデージャポン?)で意見を言うのだけど同意してくれる人がいない、俺だけ浮いている・・・・」というようなことを言っていました。
彼の言うことは割とまともで「そうだよな」と私は思うのですが、他の人には言葉が通じないと言うのです。
勉強不足のようなことも言っていましたが個人的には「自分の都合の良いようにしか物事を考えない」「他の意見を受け入れることは無い」と言うことなんじゃないかなと。
もう少し具体的に言えば「周りの雰囲気を見てそれに同調しているだけ」なのではと思うのです。
当たり前のことですがテレビで本当のことを言ったらすぐに出演出来なくなるでしょう。
テレビとはそういうところです。
ですから仏教など嫌いなのです。
「今死んだらどうする」
なんてことを言われたらそれこそ出て行けです。
本質を求めている人にとってはテレビとはどうでも良い世界です。
しかし、それが世の中を動かしています。
有るテレビ局の入社式に社長が新入社員に向かって「君たちが世の中を動かしているのだ」ということを言ったと聞きます。
傲慢にもほどがありますが「そんなものなんだ」と思いました。
話がずれましたが「人は独り、一人の宇宙にいる」ため真実を受け入れる力はありません。
だから外からの力によって真実と向き合うことが出来ます。
それは人それぞれのご縁によって様々ですが真実に出会うことが出来た人は本当に幸せだと思います。
また、真実だと思っていてもそれが本物かどうかはいろんな人に教えていただかないと判断できません。
最近なにかと話題の統一教会と既存の宗教と何が違うのか正しく話し理解してもらうことは本当は難しいと思います。
個人的には統一教会は伝統宗教と呼ばれる団体とは全く異なる団体と思っています。
統一教会が真実だと思っている人にとっては、伝統宗教など問題外です。
ところがお金を集めて人を導くということについては同じです。
何も変わりません。
ですからマインドコントロールを犯罪とするのは無理なのです。
あくまで民法上及び刑法上の判断しか出来ません。
どちらの生き方を選ぶのかは自由です。
問題の本質は、私の苦しみを除いてくれる教えはどれかです。
全てを放りだして身軽になって神様の許しを得ることが出来たから私は幸せと思うのならそれでその人は幸せです。
神に召されていくのだと信じて生きることが出来るのです。
そういう仲間もたくさんいますから安心です。
・・・・本当ですか?
お釈迦様は四聖諦を顕(あらわ)されました。※1
問題提起をしてくださったのです。
それに答えも用意してくださいました。
どちらを選ぶのかはその人の自由です。
※1
釈尊が最初の説法で示された四つの真理。四聖諦(ししょうたい)の略。
①苦諦(くたい)人生は苦であるという真理。
②集諦(じったい)苦を招き集める原因は煩悩であるという真理。
③滅諦(めったい)煩悩を滅尽することによって、苦のない涅槃寂静の境地が実現するという真理。
④道諦(どうたい)涅槃寂静の境地に至るためには、八聖道(八正道,八聖道分)を実践せねばならないという真理。
このうち①②は迷いの果と因、③④はさとりの果と因をあらわす。