いつ読んだのか忘れるくらい前に読んでいたので内容はさっぱり忘れていました。
改めて今回読み直してとんでもない小説だと思いました。
はっきり言って小説の内容はクズ男の話です。
社会的不適合者の話と言っていいでしょう。
人間失格の主人公、葉蔵は煩悩の赴くままに行動します。
ところが一応世間体を気にして外面はきわめて良いのです。
小説内で内面と外面を非常に細かく描写しています。
内面に対して自己嫌悪が激しいのですがそれを隠し続けます。
そして欲望に流されて堕落して行きます。
実際の太宰の身に起こったことを題材に書かれていますのでリアル感がすごく身に迫ってくる感じはあります。
小説はある意味自分を投影しているところはあると思いますので苦悩する人間というところでは共感出来るところもあります。
また、人生の指針や回答を求めようとしていないところは多くの人に共通するのかもしれません。
誰かとのご縁で人生の指針を教えていただくことが無いから一人で悩んでいると感じます。
助けを求めることも出来ない人なのかもしれません。
私も似たようなところはあると思いますが、今までは葉蔵ほど流されることはありませんでした。
しかし、さるべき業縁が来たなら何をしでかすか分かったものではありません。
三島由紀夫は太宰治の小説を嫌い「太宰の悩みは朝のラジオ体操で解決する」と言ったと言われています。
そういう三島由紀夫も死に方は違っても最後は自死されています。
似たところがあるのでしょうか。
太宰治のことを本当によく知っている人からするといろいろなことを言われると思います。
漫才師であり作家でもある又吉直樹は人間失格は聖書であると言っています。
彼にとっての聖書ではあるでしょうが他の人はまた異なるでしょう。
若い時期に読むと影響を受ける人が多いように思います。
私も若いときに読んでいたので少なからず影響を受けていたと思います。
いずれにしても答えの無い、苦しみから逃れるすべの無い小説です。
改めて感じるのはお釈迦様のみ教えのすばらしさです。
親鸞聖人が晩年に書かれたご消息にもありますが仏教とのご縁、阿弥陀仏とのご縁を結んだならばこの世の酔いから醒めると言われています。※
この世が迷いの世界ということを教えてくださっています。
その上で造悪無碍に走るなとも教えてくださっています。
今の私には人間失格の人も救う阿弥陀様に出会わせていただいて、人間の道を歩かせていただいているような気がします。
お釈迦様のみ教えに出会わなかったら太宰治と同じように苦しみから抜け出すことが出来ずにいたのかもしれませんね。
※
親鸞聖人御消息
まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。
しかるになほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬになほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり、毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。