とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

あなたの白道

既に さようなら親鸞会 でご紹介がされていますが、嶋田さんが命を削ってまで書こうとされていました 「あなたの白道」 を以下のサイトでもご覧になれますのでご紹介します。
まずは、第1部からですがたいへんな人生をされていますね。
今更ながらに驚きます。
私の感想はともかく、嶋田さんから皆さんに読んで頂きたいと言われていました。
皆さん、よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

タイトル:あなたの白道
URL:
http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

千日回峰行と神通力

久しぶりに記事の更新をします。求道者Kさんに山も山さんのご法話の感想を求められていましたが、ちょっと違った記事になったことご容赦ください。

 

先日新聞のニュースに一山善住院住職、釜堀浩元さん(43歳)が千日回峰行を萬行されたと報道されました。
誠にすばらしいことで今の時代貴重な方だと思います。
大行満大阿闍梨という称号を頂き、生き仏との扱いになるそうです。
生き仏の扱いは別として、千日回峰行についてはいろいろな本で書かれています。
すべての感覚が敏感になるとか、不思議な体験をいくつもするとかありますが、お釈迦様の時代には修行によって神通力と言われるものを体得すると言われています。

神通力には六神通があります。
神足(じんそく)通 - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
天耳(てんに)通 - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
他心(たしん)通 - 他人の心を知る力。
宿命(しゅくみょう)通 - 自分の過去世(前世)を知る力。
天眼(てんげん)通/ 死生智(ししょうち) - 一切衆生の過去世(前世)を知る力
漏尽(ろじん)通 - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。

沙門果経には修行によって得られる果報について詳しく書かれています。

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釈尊がマガタ国王に仏教の沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の果報を問われ、
まず戒律順守によって得られる果報、
次に止行(禅定、四禅)によって得られる果報を次々と述べた後に、
その先の観行(四念住(四念処))によって得られる果報を、以下のように述べています。
観行による果報に六神通があります。
以下、仏教修行者の果報をのべます。

○「持戒」「戒律」の果報

釈尊はまず、下僕や農夫であろうと、
身体・言葉・心(身口意の三業)を制御し、最小限の衣食に満足し、閑居を楽しんで日を送れることを述べる。

更なる果報を問われ、波羅提木叉(具足戒)による制御により、正しい行いや托鉢の場所を保持し、わずかな罪にさえ恐怖の念を抱き、自己を鍛錬し、正しい身体・言語活動を身に付け、清浄な生活を営み、感覚器官を外界から防御し、思慮深く、自覚的であることを身に付け、満足すると述べる。そして、比丘が守る具体的な戒について述べ始める。
殺生を捨て、武器を捨て、控えめで、慈悲心が厚く、全ての生物の利益をはかって哀れみを寄せる。
与えられないものを取ることを断ち、与えられたものだけを取り、盗み心を持たない。
純潔でない生活を捨て、愛欲を断ち、淫らな行いを断つ。
嘘を断ち、真実を語り、正直であり、世間を欺かない。
中傷を断ち、和合を推進し、協調を生み出す。
粗野な言葉を捨て、穏やかで、耳に快く、慈愛に満ち、心に訴え、優雅で、多くの人を喜ばせ、魅了するような言葉を語る。
戯言を捨て、ありのままのこと、意味のあること、真理の教え、戒律、心に明記されるべき言葉を、語るにふさわしい時に、比喩を混ぜながら、句切りをはっきりと、意味が分かるように語る。
種子・草木を傷つけることを断つ。
不要な貯蔵・享受を断つ。
娯楽を断つ。
賭博・遊びを断つ。
高大な寝台を断つ。
装飾・化粧を断つ。
低俗話を断つ。
言い争いを断つ。
使い走りに携わることを断つ。
ペテン・饒舌を断つ。
呪術を断つ。

以上のような戒律によって、自己制御することを述べた上で、更に、どのように「感覚器官を外界から防御し、思慮深く、自覚的であることを身に付け、満足する」のかについて解説していく。
眼でものを見る時、全体にも細部にも囚われない。耳、鼻、舌、身体、意思(以上、六根)においても同様。
あらゆる動作において、自覚的に行動する。
どこであろうが、最低限の衣食だけで満足する。

そして最後に、住についての説明も加わる。
森・木の根元・三学・峡谷・岩窟・墓地・藪地・露天・藁の積み重ねなど、人里離れた所に安息の場を求め、托鉢から帰ってきて食事が終わると、正しく足を組んで結跏趺坐し、身体を真っ直ぐにして、心を集中して座る。

こうして、戒律・生活水準での果報の説明が終わり、瞑想の果報についての話に移る。

○「四禅」の果報

瞑想については、まず、「五蓋」の煩悩を取り除くところから話が始まる。
五蓋が取り除かれていることを自己の中で確認すると、歓喜、喜悦、軽安、安楽が生じ、三昧を得る。
そして、四禅の説明に入る。

欲界の愛欲・不正を離れ、その喜び・安楽、また観察・考究を伴った、「初禅」に入る。喜び・安楽で身体を充たす。
観察・考究をやめて、「二禅」に入る。内心における平穏(内等浄)、心の安定(三昧)から生じる喜び・安楽で身体を充たす。
喜びから離れ、「三禅」に入る。喜びから離れた安楽(離喜妙楽)で身体を充たす。
安楽も断ち、苦も断ち、「四禅」に入る。苦楽から離れた清浄な心で身体を充たす。

こうして次の洞察の話に移る。

○「観行」の果報「六神通」

上記の四禅に続き、比丘が知による洞察に心を傾ける観行に入り、以下の話が続く。
身体の観察(身念処)。この体は形を持ち、四元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常でなく、衰退・消耗・分解・崩壊するのがその本質であると知る。
思考から成り立つ身体を生み出す。物理的身体から、四肢感覚を備えた別の身体を生み出す。
(上記の身体を用いて)様々な超能力(神通)に心を傾ける。
 一から多、多から一になる。
姿を表したり、隠したりする。
塀や城壁や山を通り抜ける。
大地に潜ったり、浮かび出たりする。
水の上を歩く。
空中を足を組んだまま飛び歩く。
月と太陽に触る。
梵天の世界に到達する。

神のような耳(天耳通)に心を傾ける。神々・人間・遠近問わず、どの音も聞くことができる。
他人の心を洞察する知(他心通)に心を傾ける。他人の心を洞察して知る。 情欲に満ちた心を、情欲に満ちた心として。情欲を離れた心を、情欲を離れた心として。
憎しみを抱いた心を、憎しみを抱いた心として。憎しみから離れた心を、憎しみから離れた心として。
迷いのある心を、迷いのある心として。迷いを離れた心を、迷いを離れた心として。
集中した心を、集中した心として。散漫な心を、散漫な心として。
寛大な心を、寛大な心として。狭い心を、狭い心として。
平凡な心を、平凡な心として。無上の心を、無上の心として。
安定した心を、安定した心として。安定していない心を、安定していない心として。
解脱した心を、解脱した心として。解脱していない心を、解脱していない心として。

過去の境涯を想起する知(宿住通)に心を傾ける。1、2、3、4、10、100、1000、10000の生涯を想起する。幾多の宇宙の生滅を通して想起する。
生命あるものの死と生に関する知(死生通)に心を傾ける。神の眼によって、因果・輪廻の様を知る。
煩悩の滅尽に関する知(漏尽通)に心を傾ける。 「苦しみ」「苦しみの原因」「苦しみの消滅」「苦しみの消滅の道」(四諦)を知る。
「解脱」を知る。
「再生の遮断」を知る。
「修行の完遂」を知る。


こうして釈尊が、仏教における沙門を果報を語り終わると、アジャータサットゥ王は感嘆し、在家信者になることを誓い、帰っていく。(wikiからの引用)

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以上のような方法により悟りを獲ることが出来るようでありますが、実際にはなかなか難しいようです。それでもいろいろなところで体験された方が不思議体験を沢山されています。
瞑想の方法についてはテーラワーダ仏教教会のスマナサーラ師(上座仏教)が有名ですので興味のある方、どうしても体験が欲しい方は一度のぞいてみると良いかもしれません。
また、ちょっと怖いと思う方はホームページに瞑想の仕方が書かれていますのでそれを参考にされてみるのも良いでしょう。
ただし、精神疾患(パニック症候群など)のある方などはやめた方が良いと書かれていますのであくまで自己責任でお願いします。
千日回峰行よりは試してみようかと思えるかもしれませんが、不思議体験をしたところで南無阿弥陀仏をそのまま聞いたことには成りませんのでご注意ください。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 


以下、語句の説明です。

 

○四禅(しぜん)とは、初期仏教で説かれる禅定の4段階のこと。三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる。禅天の意味で用いる場合は、初禅天から三禅天まではそれぞれ三種の天をとり、四禅天については外道天などを含む九種の天をとって合計で十八禅天あるとする。ただし、四禅天には諸説あって合計で十六禅天とすることもある。

初禅 --- 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。
第二禅 --- 尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
第三禅 --- 喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。
第四禅 --- 楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。

 

ヴィパッサナー瞑想(「観行」の一つの方法)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想である。ヴィパッサナーは「観察する」を意味する(毘婆奢那、毘鉢舎那と音訳され、「観」と翻訳されるサンスクリットのヴィパシュヤナー [vipaśyanā] に相当するパーリ語)。アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる。

仏教において瞑想(漢訳「止観」)を、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある。サマタ瞑想は精神集中であり、高ぶった心を鎮める手段でもある。ヴィパッサナー瞑想は洞察(智慧)であり、沈んだ心を活気づける手段でもある。通常、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想はペアで修習される(止観行 = 瑜伽行)。ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想は包摂概念でもあり、様々な瞑想状態もしくは瞑想法は、このどちらかかあるいは両方に含まれる。

スリランカ・東南アジアの上座仏教では、止は普通のお寺に住んでいる比丘たちが行う瞑想法で、心を鎮めるものであり、観は止よりずっと高度であり、諸行無常諸法無我一切皆苦という仏教的真理を洞察して、涅槃寂静に達しようとするものであるとされている[5]。これは伝統的に、森林にこもって瞑想に専念する森林僧が行うものである
ヴィパッサナーとは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である。一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。

伝統的に上座部仏教においては、サマタ瞑想を先に修行して、それからヴィパッサナー瞑想へと進むという階梯がとられてきた。ヴィパッサナー瞑想を行なうためには少なくとも第一禅定(最高で第四禅定)に入っている必要があるとされ、そのためにはサマタ瞑想を行なわねばならないのである。

これに対し、最初からヴィパッサナー瞑想のみを中心に修行するという道も、少数派ながら古くから存在した。これは、ヴィパッサナー瞑想を行うことによって、自然に第一禅定がもたらされるという事実に基づいている。またより重要な問題点として、サマタ瞑想にあまり重点を置きすぎると、それによってもたらされる三昧の快楽に耽ってしまいがちであり、なかなか悟りが開けないという点も指摘される。ブッダの悟りあくまでもヴィパッサナー瞑想によって開かれたとする観点による。

 

○五蓋(ごがい、パンチャ・ニーヴァラナーニ)とは、仏教における瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称。蓋(がい、ニーヴァラナ)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。

なお、これと似た概念として、生存者を欲界へと結び付ける5つの束縛としての五下分結(ごげぶんけつ)という概念もある。下分(げぶん)とは、下の領域すなわち欲界のこと。結(けつ、サンヨージャナ)とは「束縛」のこと。

貪欲(とんよく) - 渇望・欲望
瞋恚(しんに) - 怒り・憎しみ
惛沈・睡眠(こんちん すいめん) - 倦怠・眠気
掉挙・悪作(じょうこ おさ) - 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
疑(ぎ) - 疑い

 

○『沙門果経』では、出家者が戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、この五蓋の除去が言及される。この五蓋が取り除かれることで、その人には歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽・三昧が生じ、初禅へと入っていく準備が整うと述べられる。

中央仏教学院長

中央仏教学院とは、浄土真宗本願寺派の僧侶になるための学院です。
高森顕徹会は同じような名前で講師学院というのを昭和六〇年頃に作られましたが、
前者の方がずっと歴史は古いので詳細をお知りになりたければ中央仏教学院を検索してみてください。とんでもなく奥が深くびっくりします。
ところで今回は、この中央仏教学院の学院長お言葉を勝手に引用します。
たまたま、中央仏教学院の冊子から情報を得ることが出来たのですが、この言葉に感心したので皆様にもお知らせしたいなと思い今回の記事に引用します。
私自身は中央仏教学院長のことも何も知らないのですが、本願寺の懐の深さに驚いています。
とりあえず以下に私に響いてきたお言葉を記します。
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中央仏教学院長 北塔光昇師


  スマートフォンで「宗教」について検索しますと、検索対象候補として「宗教団体」、「宗教活動」、「宗教芸能人」などの言葉が出てきます。それぞれにアクセスしてみますと、「新興宗教の団体」、「新興宗教の勧誘」、「新興宗教と芸能人」と、新興宗教関係の記事や意見が出てきます。多くの人にとっての宗教への関心事は、新興宗教のようです。
  また、新聞やテレビの報道番組などの宗教への関心事はイスラム教やキリスト教が中心であって、教養番組を除いては仏教はないようです。
  しかし、私達中央仏教学院で学ぶ宗教とは、仏教が主であって、その他の宗教ではありません。たとえ、科目としてそれらを学ぶことがあっても、仏教との違い、真宗との違いを学ぶのであって、興味からも、教養からも、まして、自らそれらの信者になるために学ぶというのではありません。
  親鸞聖人がお勧めくださる浄土真宗こそが真実の教えであり、私が仏に成ることのできる唯一の教えであることを学ぶのです。・・・以下省略
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は驚きました。
最後の二行について、ここまでハッキリ言われる方が本願寺におられるのに心が躍りました。
嬉しいことです。
これが本願寺だ、これこそが親鸞聖人、蓮如上人を引き継ぐ方達の姿だと感動せずにはおれませんでした。
この後にもいろいろ書かれていますが最後は阿弥陀様のお慈悲について書かれているのです。
個人的にはこの方に頭が下がりました。
「おっしゃるとおりです、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」と心の中で叫んでいました。
浄土真宗の奥深さ、侮ってはいけません。
まして、高森顕徹会など歯牙にもかけない存在です。
本願寺、恐るべし。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

勉強会の感想

今回は、山も山さんにお願いして勉強会を開催しました。
沢山の方に参加していただき、また、和やかな雰囲気で非常に良かったと思っております。
さらに飛雲さんも後で参加していただきました。
これもありがたいご縁でした。

ご法話の内容については、正信偈を通して阿弥陀様の御本願を詳しく話していただきました。
ご法話の感想で阿弥陀様が近くに感じられるようになったと言われる人もありました。
ご法話の後に懇親会も開催しましたが、皆さん楽しそうでした。

また、皆さんお一人お一人が自分の事として聞かせていただく、そこには自由な発言が大事だと思います。
そのため質疑の時間も十分取って頂きました。

私個人の感想としては、阿弥陀様と私の関係において、理解するだけではない、ただ、それはお一人お一人で受け止め方は違うものの、理解することとは異なるものがあることを強調されたことに本当にそうだなと思いました。

先手の阿弥陀様、後手は私。聞くだけと言いながらも、疑いなく聞くというところも詳しく話して頂きました。
高森顕徹会的ピカドン信心が信心では無いとは思っておられても、知った、覚えたとは違うことをいろいろな譬えをもって何度も何度も教えて頂きました。
御念仏の重要性も説いて頂きました。

詳しく教えて頂いたことを書きたいのですが長くなるので一つだけ。自分の努力では分かるものでは無いと言うことです。これこれしたら、あれをしたら、こうなったら、と言うのは間違いだということです。また分別して理解するものではなく、無分別の世界だと言うことです。う~ん、やはり分かりにくいでしょうがこうしか書けませんね。

今回、参加者は退会者がほとんどで高森顕徹会の間違いを確認する意味では非常に有り難いご縁でした。

次回はいつになるか分かりませんが、また行いたいと思います。
皆さん、ご参加ありがとうございました。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

ようこそ、ようこそ

つぶやきです。

最近いろんな方の生き方について考えています。成功している人、底辺で働いている人、様々な職業、考え方、生き方、趣味・・・。

そして、外国で迫害を受けなければならない人生を強いられている人たち。

その中で何が正しくて何が間違いなのか分からなくなります。

芸術家は自分の中から出る衝動に突き動かされて生きています。犯罪者は迷いを深めてどんどん転げ落ちていきます。一般の人は我慢しながら生きるために働いています。

そこで何が分かるのか。

人生苦なりは当たり前ですが、そんな一言で片付けられない様々な思いが私の中で渦巻きます。まるで台風のようにあらゆる考えや妄想が渦巻いて私を悩ませます。

親鸞会で未だに頑張っている人はそのまま親鸞会会員で死んでいく人も多いかもしれません。今更他に行っても何も変わらないと思い込んでいるのかもしれません。

中にはこれが本当だと思い込んで生きている人もいるでしょう。

私は有り難い事にその世界から別の世界に出させていただきました。

 

そして、私は私の世界で限られた人たちとのご縁を結びながら、流れにまかせながら生きています。今更新しい世界で生きて行こうとも思いませんが、他の道もあるのかもしれません。

輪廻転生はたぶんするでしょうが過去のことは知りませんし、未来のことはなおさら何も分かりません。ただ、生まれてきて自分が幸せを感じられるものに引きつけられ、そうして生きてきただけです。

だから、これから先もどうなるのかさっぱりですが、間違いなく他の人がどう思おうと自分が幸せと感じられる生き方を選択するでしょう。

ところがその私に何故か仏教とのご縁があり、そこに引きつけられ離れられずにこだわりながら、これが本当だと本物を知る智慧もないくせに勝手に思い込んで(思いこまされているのかもしれません)、そこで説かれる幸せを目指して生きています。

それも南無阿弥陀仏というあり得ないような教えを本気で信じています。

本当にここに幸福があるのか、いや、今幸福なのか、ハッキリ言って南無阿弥陀仏で満足なのか、私の心を探してみたらさっぱり分かりません。

しかし、何とも言えない圧倒的な力に、南無阿弥陀仏を否定できない自分がいます。

 

では、もう少し突っ込んで、お前の後生は大丈夫か?

さっぱり分かりません。死にたくありません。

でも、死んでいくことは頭では理解しています。

そして、私の人生はそれしかないことも。

では、その先どうなるか分からないのだから、そんなことより、今、どうしたいのか。

 

ただ、南無阿弥陀仏の教えを深めていきたいだけと思う一方で自分の幸せ、世間的な幸福をたらふく欲しいと思っています。

それを、南無阿弥陀仏を利用して死ぬまで生きて行けたらそれで良い、そんな心しかありません。

御念仏は私に理解できるものではありませんが、圧倒的な力で私を突き動かします。私をとらえて離さない力があります。そして称える気のない私の口を押し開けて南無阿弥陀仏を称えさせられます。

 

仏教との出会い、これが無かったら私の人生は本当に満足したものになっただろうか。

釈尊がお出になられたこの世に生まれることがあって、釈尊のみ教え、そして親鸞聖人のみ教えに遇わせていただいて良かったです。

ようこそ、ようこそ

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

朝の連続ドラマ

朝の連続ドラマと言えば、全世界的に有名になったNHKの「おしん」があります。

おしん」が流行っていたときは全く見ていません。
何度も再放送がされていたように記憶しています。
その後ようやく見るようになったドラマは本当に最近なのです。
一番感動してしまったのが「てっぱん」です。
広島のお好み焼き屋のお話です。
何に感動したかほとんど忘れてしまっていますが、とにかく出演者が皆菩薩様のように慈悲深いのです。
あり得ない設定が多かったのですがドラマとはそういうものなのでしょう。
今は「ひよっこ」が9月までやる予定です。
このドラマはちょうど団塊の世代のドラマです。戦後復興から高度成長期にかけて日本が飛躍していく時代は見ていて面白いです。視聴率も結構高いようです。


それにしても、なぜこんな朝ドラに自分の心が反応しているのか、「お前、暇だろ。」と内なる声が聞こえますがやはり見てしまいます。
実話であれフィクションであれ、しばらくの間別の世界に浸ることが出来る点に於いては映画と同じかもしれません。
それでも「ひよっこ」は見ていて楽しいので許します。


しかし個人的感想で「しょうもない」テレビ番組は沢山あります。
最近は見ていませんが「サンデーモーニング」という番組もそう思います。
あの番組を見ているとせっかくの日曜日が朝から気分悪くなってしまいます。
いろいろ問題があるのでこれ以上書きませんが、テレビを見ているときの人間の脳はほとんど停止しているそうです。クイズ番組でも同じだそうです。
テレビを見て喜んでいても怒っていても同じとはちょっと不思議です。
北品川病院院長 築山節医師は、テレビをだらだら見るのとネットサーフィンは同じように「脳が働いていない」と言います。
これは昔流行った「一億総白痴化」(社会評論家の故・大宅壮一さんの言葉)を証明していると思います。「テレビばかり見ていると、人間の想像力や思想力が低下してしまう」という意味ですがその通りです。
ラジオは良いそうです。特に落語などは想像力を働かせるのでラジオを聞きながら仕事をするのは良さそうです。
まあ、それでも本当に大事なことを考えるときは雑音となるかもしれませんね。


それではご法話はどうでしょうか。
聞いていると嫌になってきて止めてしまうことがありませんか。
もういいやと思ってしまったり、だいたい分かったと思っていませんか。
自分がそうだから人も同じと思っているのではないかと思われるかもしれませんが、他の人と話をしていても内心はそう思ってしまう自分があることに気がつかせられます。
嫌いなんですね。
仏教の話は。
自分と向き合いたくないのが本音かもしれません。どこどこまでも自分勝手な聞き方しか出来ないのかもしれません。


「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」と云々


現代語訳「わずか一句の御教化、一言の御言葉を聴聞するにも、とかく人はただ自分に都合のよいように聞くものである。それゆえ、いちずによく聞き、聞いて心に受け取ったままを申し述べて、仲間と互いに話し合うべきである」(蓮如上人御一代記聞書)

この条と同じ内容のことが119条にあります。

 

「前々住上人、御法談已後、仰せられ候う。四五人のご兄弟へ仰せられ候う。「四五人の衆、寄り合い談合せよ、必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべき」の由、仰せられ候。」

 

こういうことです。自分勝手に聞いてしまうのでお同行とお話しすることが大事ですよと言われています。
テレビの朝ドラは喜んでみるのに、仏法は本当に聞くのが大変ですね。
良い意味での談合をお同行とするべきでしょう。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

社会学者

nornsaffectioさんからコメントを頂き不適切な表現が多々あると思いましたので修正します。おかげで社会学をもう一度調べ直す機会を頂きました。

それでもやはり宮台真司氏は好きになれませんね。

簡単に言えば言葉にリアリティーが感じられないのです。

本当にカルトや性やサブカル以外の世界で働く人たちを観察したのか疑ってしまう。

宿業の一言で片付けたくは無いのですが、残念です。

nornsaffectioさん、ありがとう。

追加 調べたサイト

二村ヒトシ氏との対談 宮ボット あさくらさんのサイト(note) voboさんのサイト

bookメーター 僕はいかにして宮台真司に感染したか yamatake'S psychology site

福音の村(対談) などなど

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社会学(しゃかいがく、英: sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問である。その研究対象は、行為、行動、相互作用といったミクロレベルのものから、家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構造やその変動(社会変動)などマクロレベルに及ぶものまでさまざまである。思想史的に言えば、「同時代(史)を把握する認識・概念(コンセプト)」を作り出そうとする学問である。

 

分かりにくいかもしれませんが個人的に興味のある社会学者と呼ばれる人が二人います。一人は宮台真司氏でもう一人は鈴木涼美氏です。

 

宮台真司氏は1990年代、オーム真理教やブルセラなどの社会現象についていろいろテレビでコメントしていたことを何となく覚えています。

また、彼に影響されて自殺する若者がいました当時多発しました。

簡単に言えば生きる目的など無いと言い、まったりと生きれば良いと言っていたように記憶しています。

 

鈴木涼美氏は中学生時代に宮台真司氏の影響を受け、ブルセラ女子高生からAV女優になり、その後東大大学院を卒業し新聞社に勤めますがAV女優だったことがバレ会社を辞めます。

本人はバレたから会社を辞めたのでは無いと言っていますが・・・・。

 

社会学者は倫理や規範、あるいは常識などについて頭から否定する傾向がありますしてかかります。

宗教に関しても簡単な言葉でカテゴライズしようとします。

 

個人的な感想ですが、自分が宗教に関わることによって失われるであろう地位や財産を怖れているのが何となく分かります。

それでいて出歯亀根性丸出しのことを書き連ねています

 

鈴木涼美氏の母親は娘の行為を死ぬまで許さなかったそうです。

父親は有名な哲学者であり母親は翻訳者でした。

不出来な娘を悲しんだことが想像出来ます。

 

だからといって二人の社会学者の生き方が間違いとか言うつもりはありません。あくまで個人的な感想ですが、ただ、あまりにも宗教や道徳というのに対して無価値とまでは言わないにしても社会を破壊したい思いを感じられるから個人的にこの人達は社会にとって悪影響な人だと思っています。

本人達にその自覚は全く無いと思いますが、社会のモラルを破っていく行為は今までの歴史を見ればいろんな問題を複雑化する材料でしかないと思います。

純化された価値基準の上に生きているときは表に出なかった問題があらわになることにより人々の生活に不安材料が増えていくのではないかと思っています。

 

 

しかし彼らからすれば宗教などは非常識の塊であり、信じるに足るものでは無いのでしょう。また、そこまで宗教を知ろうとも思っていないでしょう。

また、彼らからすれば宗教はあくまで学問の対象であり、信仰の対象とはしないのでしょう。

まして釈尊の説かれた八正道の世界や十善戒の世界など知識としては入っていても、その本当の所を知ろうとして修行をされることはまずありません。知るよしも無いと思います。

これも個人的な感想ですが彼らのような人間が出てくることが煩悩穢の世界に突入したのかとも思います。

 

彼らの発言を読むに付けお釈迦様のお言葉に磨きがかかります。彼らは私の持っている闇をそのまま表に出しているのかもしれません。本人達は因果の道理や阿弥陀様の御本願とは本当に遠いところにいる人たちだなと思わずにおれません。

不幸な人たちと思うのは間違いでしょうか。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏