とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

気持ちは言わなければ伝わらないが・・・。

自分が思っていることを相手に理解してもらおうと思って言葉を尽くして伝えようとしてもなかなか伝わらないことが多いと思います。面と向かって相手の顔を見て話をしても伝わらないときは伝わりません。当然、メールやlineでは十分ではありません。

ですから仕事をしているときでも家庭でも、そのうち面倒くさくなってどうでもいいやと思うこともしばしばあります。

私だけかもしれませんが、そうして放っておくと後でしまったと思うこともあります。人間と動物の違いは、言葉を操り自分の今の思いとか感じていることを伝えることが出来るかどうかと言うことと、自分の存在意義について考えることがあることではないかと思います。

お釈迦様は人々を救おうと立ち上がり法を説かれました。そして、お弟子の中から悟る者が沢山出てきました。原始仏教では声聞、縁覚と言われ、菩薩ともほぼ同等の扱いだそうです。それが大乗仏教が言われるようになってから、声聞、縁覚と菩薩は扱いが変わってきたそうです。

釈尊の法を聞いて悟る、あるいは自ら十二因縁を体得して悟る人を声聞、縁覚と言われるようになりました。これらの方はお釈迦様の教えを沢山聞かれているので、教えについて語ることは出来るのですが、そのお心というか気持ちを伝えることが出来ないと言われています。

声聞、縁覚とは、別名二乗と言われ自力で阿羅漢果の悟りを得た方達です。自分の力で煩悩を断絶し、悟りを得られた方ですが、仏様ではありませんので、慈悲が無いと言われています。慈悲が無いと言うことは、我利我利亡者かというとそうではなくで、まず、我が身の煩悩を断絶することを優先した結果、大慈悲心を起こすことが無いと言われています。

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大智度論』では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。

大乗仏教では、「二乗の者は地獄にさえ堕ちない」と言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないという意味で、二乗は仏になれないと非難されているのである。・・・・wikiより

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大乗仏教の教えからすれば、自分だけでなく他の人の幸せも念じることが慈悲の心であると言われます。自分にあるか、無いかは別として慈悲の心は私にかかっているのでしょう。仏様の気持ちは私に直接言葉で伝わってきていないと思っていましたが、実はいろいろな形で私を呼びかけていることを教えてくださいます。

私の周りに仏様のお力は目に見えない形で働いておられます。それは人それぞれに感じられるでしょう。感じられない人は、こう思ってください。命、今、生きていることに阿弥陀様のお力がかかっている、だから、生きていることは阿弥陀様のお力が働いているからだと。

アホかと思われるかもしれませんが、そのことに真剣に向き合っているのが比叡山などで聖道門の修行をされている方々ではないかと思います。

比叡山などで自力の修行をされている方は声聞、縁覚の方かもしれません。

浄土真宗は、大乗仏教です。

自分だけの思いから信心決定を目指していると思っていますが、その思いが他の人を導こうと阿弥陀様のお力によって起こさせられいるかもしれません。

そういう意味で親鸞会での顕正活動(中身は別として)は尊いものだったのかもしれないと思うこともあります。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

宗教問題15を読んで

パソコンが使えるようになりましたので再開します。

 

そもそも「宗教問題」などと言う本があることさえ知らなかったのが、そのことを「さよなら親鸞会」や「安心問答」などで知って是非読んで見たいと思いました。

なかなか手に入らないと思ったけど、アマゾンで追加があるかないか分からないうちからとりあえず申し込んでおきました。

まず、手に取ってみて思ったのが週刊金曜日みたいな本だなと思いました。知る人ぞ知る週刊金曜日ですが、知らないということは怖ろしいというか、親鸞会の人たち、高森会長はインタビューを受けるにあたって宗教問題を読んだことがあったのだろうかと思いました。

高森会長だけでなく幹部はその事を知らなかったのか、ちょっとガードが低いな思います。本の題名からして危ないと思わなかったのかと思わずにおれません。

端的に感想を言うと、自信過剰というか問題意識の無い団体だと今なら本当に思います。

中にいると分からないかもしれませんが、マインドコントロールの一言で片付けるには問題が大きすぎですね。

内容についてですが、まず驚いたのが記者が一人ではないということです。記事は8本も有り、ある意味これを読めば親鸞会の今が分かります。さらに私が思いつかない視点からの記事もありました。アニメ「なぜ生きる」のことについてここまで調べたかとびっくりしました。やはり出来の悪いアニメだったんだと思いました。

また、高森会長へのインタビュー記事も正直に書かれており、今の親鸞会をそのまま表していると思いました。ただ、記事の印象は良いのですが結局嘘をついていることが後の記事でばれてしまっていることに残念な思いしかありませんでした。

スローガンは良いのにやっていることがお粗末ということです。スローガン道理の理想を目指す団体になれば良いのに、本当にそうなることが出来る人たちがそろっているのにと思います。

個人的には、この記事が一番大事だなと思うのが、紅楳英顕師の記事と元会員のインタビュー記事です。この二つの記事は本当のことをそのまま語っていることです。

この記事に対して親鸞会は何一つ回答できていません。というかそういう記事はありません。結局、一般読者が読んでうける感想は親鸞会は残念な団体だなとしか思わないでしょう。私個人としても残念です。

過去において何度も組織を改めるチャンスがあったにもかかわらず、結局高森会長の嘘をそのまま信じ行動していることによって社会的な地位を下げてしまっていること、理想を掲げながら理想を実現するためと異なることばかり行っていることが読み取ることが出来ます。

この雑誌を読めば会員に大きな動揺が起き、組織の存在が危ぶまれる事になると思いますが、記事に書かれていることを少しでも改める気があるのか無いのか、そこを注視していきたいと思います。

現役の会員の方には是非読んでもらいたい雑誌ですので、知り合いの現会員に送ってあげようかとも思います。雑誌の最後の方に書かれていましたが親鸞会について読者の会も開かれる予定になっています。9月24日(土)に東京で行われます。

 

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犬や猫に産まれなくてよかった。

私の母親は既に亡くなっていますが、子供の頃よく言われたことがあります。

「犬や猫に産まれてきたらそのへんで、ワンワンと吠えていたり、ニャーニャーと鳴いていたりしてこんな生活出来ないぞ。」と。

その時、私はそうだなと思う一方、でも犬や猫もあれはあれで幸せではないかとも思いました。

勉強もする必要も無く、ご飯もきちんと食べられるわけだし(うちの飼犬について)、ただ鎖につながれて自由じゃないのはつまらないかもしれないが、猫にいたっては自由に遊んでいるわけだからもっと幸せかもと。

しかし源信僧都は横川法語で以下のように述べられておられます。

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「横川法語」

それ、一切衆生三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

 

現代語訳
生きとし生けるもの全ての中において、三悪道(地獄の世界・餓鬼の世界・畜生の世界)を避けて、人間に生まれるということは、大変希なことなのです。
社会的な地位は低いと言っても、畜生より劣ると言うことではありません。
家が貧しいと言っても、もがき苦しむ餓鬼ではないのです。

心の中に思うことが実現しないと言っても、地獄の苦しみには比べようもありません。
生活の中での不満は、自分が愛おしいという証拠なのです。
多くの人が、浅ましい心根を持っているということは、本当の幸せ(命の尊さに気づく)を願っていると言う証拠なのです。
人間に生まれたことを喜ぶことが大切です。

信心は浅いかも知れませんが、阿弥陀仏の本願があまりにも深いので、タノメば必ず浄土に往生出来るのです。
念仏を称えるのは気の進まないことでしょうが、唱えれば、必ず来迎(臨終の時に、阿弥陀仏のお使いに迎えに来ていただける)に出会えるのです。
阿弥陀仏の功徳は莫大なのです。
ですから、阿弥陀仏の本願に出遭うことを、大切に喜ぶべきなのです。

また妄念は、本来私たち凡夫に備わったものです。私たちは妄念の外には別の心などないのです。
臨終の時までは、私は妄念の凡夫なのですと自覚して、一向に念仏すれば、来迎に出遭って、蓮の台(うてな)に乗る時にこそ、妄念をひるがえして、さとりの心を持つことなるのです。
妄念を持ったままで称えている念仏は、よごれに浸まない蓮のように、必ず浄土へ往生するのですから、絶対に疑ってはならないのです。
妄念があると言う事実を嫌わないで(妄念あるがままで)、むしろ、真実の信心が浅いのだと嘆いて、心をしっかりと保って、南無阿弥陀仏の名号を唱えることが大切です。

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確かに犬や猫に産まれてきたら御念仏は称えられなかったし、信心について知ることも無かった、生きる意味も分からず、ただ、生死を繰り返していただけだなと思います。

幸せが何かも分からず、空しいとも何も分からず生きていたのでしょう。

やはり人間に生まれ、仏法に出会えて良かったと思います。

ところで源信僧都のお言葉ですが、やはり何処にも後生の解決のために善をせよとはありません。

どこかの先生の教えとは全く異なることがはっきり分かります。

また、なぜ生きて行かなければならないのか、何のために生きるのかも答えが書かれています。そしてどうすれば良いのかも答えられています。

 

御念仏しながら、そのまま聞くだけだなと聞かせていただきます。

臨終来迎のことも書かれていますが、凡夫の私には関係のないことです。妄念妄想のまま称えさせていただくだけなのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

勉強会の感想

勉強会に多くの方がご参加いただきありがとうございました。

嶋田さんはいつもと同じように阿弥陀様のお心を力強く伝えて下さいました。

阿弥陀様のお慈悲、そして私の姿をお聖教を根拠に教えてくれました。

また、いろんな情報も頂き今回はびっくりすることが本当に沢山ありました。

一番驚いたのは飛雲さんのブログに書かれた講師のことです。

びっくり仰天、この世の無常をひしひしと思い知らされました。

真実は人を動かさずにおれない、怖ろしいです。

マインドコントロールを無理矢理はがされた講師は今どうされているのか。

翼をもがれた鳥のようにどこかでうずくまっているのではないか。

しょげないで欲しい、一番阿弥陀様に近いところにおられるのです。

どうか、どうか、あきらめず阿弥陀様の本願を聞いて欲しい。

自分のくだらないプライドなど捨てて退会者の話を一度まじめに聞いて欲しい。

嶋田さん始め多くの退会者が信心を頂いているのです。

本当かどうか自分の足で確かめて欲しい。

絶対に貴方達を捨てはしない。退会者は皆願っているのです。

だれも「ざまーみろ」なんて思っていません。

その証拠に、勉強会で退会された講師の話を聞いたとき皆「よかった、よかった。」と喜んでいたのです。

よかった、よかった、本当によかった。

今生でどうか信を開いてください。

阿弥陀様は今か今かと待っておられるのです。

どうか退会者の声に耳を傾けて欲しい。

 

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オリンピック選手と信心

今、まさにオリンピックの真っ最中です。

私も好きな選手を勝手に応援して興奮しています。

選手はそれぞれの思いを胸に4年間かそれ以上の時間と体力とお金のすべてをつぎ込んでたった一度のチャンスに賭けています。

それで本当に何が得られるのか、地位や名声や財産を築くことも出来るでしょうが、そんなことよりとにかく勝ちたいのか、いずれにしても何か分からない大きなものが手に入るのかもしれません。

ある人が言っていましたが、そこに立たないと見えないものがあると。

ある頂点に立ってみて始めて見えるものがあるのでしょう。それを得ようと必死で努力している姿は我利我利亡者と言えるのか、私はそうばかりとは言えないように思います。

どうしても彼らの努力は無駄ではないと思ってしまいます。何を得るか分からないが何かあるに違いない、本当は何も無かったことに気づくかもしれないがそれでも努力する姿は尊敬にこそ値する姿だと思います。

そんなことは分かっていると言われる方は多いと思いますが、やはり自分の人生と比較して我が身をもっと向上させたいと思わせてくれるのですから大事だなと改めて思います。ちょっと大げさに言えば日本人のアイデンティティを向上させるのではないかと思います。

翻ってご信心を頂きたい、後生の解決を人生賭けてしたいという思いはどうでしょうか。オリンピック選手ほど命がけの求道をしたのか、夜も寝ることが出来ないくらい悩んだのか、様々な思いが沸いてきます。私は私なりに人生を賭けて求めていると言われる方も多いと思いますが、私はオリンピックの選手を見て自分の求道を振り返ってみたとき甘ちゃんだな~と思わずにおれませんでした。

オリンピック選手の道は聖道門の道なのでしょう。

親鸞会において、活動を必死にされていた人は沢山います。私など嫌々参加していたくらいですからどうしようもありませんが、一生懸命活動されていた方は、それは本当に尊い姿なのかどうかを思い返してみたとき、一つ大事なことに気がつきます。正しい道か、そうでないかの違いです。

オリンピック選手の道は世間的価値から言えば正しい道です。親鸞会の活動は世間的な価値から言えば正しくない道です。

何が正しくて何が間違いかは言うまでもありません。

では、仏様の目から見たらどうでしょうか。

残念ながらオリンピック選手より親鸞会の方が阿弥陀様には近いと思います。あくまで比較の基準が後生の一大事の解決とした場合ですが。

しかし親鸞会にいてはいつまで経っても救われることはありません。なぜなら求める方向が違うからです。そうすると親鸞会の方が後生の一大事の解決について近道なのかどうか分からなくなります。オリンピック選手が無常に気づき後生の解決を求めて本山に駆け込んだなら一番近道になるかもしれません。

では、後生の解決は行き当たりばったりなのでしょうか。

答えはすべて阿弥陀様によるお導きでしょうが、この世にいるかぎり自分の意思で求めるべきだと私は思います。いかに軟弱な根性だとしても、最後は阿弥陀様のお力で必ず救って下さるとしてもです。自分の思いなど全く役に立ちませんが、後生の解決、気になってしまったのですからそれを放っておいてよいわけがありません。

求道の動機は、非常に打算的なものだったかもしれません。また、オリンピック選手のように必死に求道したのかどうか私については疑問符は付きますが、それでも求めずにはおれませんでした。

そして、たまたま、ほんとうに、たまたま、道を歩いていたら躓いて気がつかさせられた、そんな程度にしか思っていないのが私ですが、そこに阿弥陀様の願いがかかっているのではないかと思います。その一瞬をずーっと待っておられたのではないのか。

阿弥陀様はオリンピック選手の気持ちとは比較にならないお力で私と取り組まれていたのではと思います。負けても負けても今度こそ、今度こそ信を与えてやると何度も何度も私に向かってきたと思うのです。

それも何度も何度も生死を繰り返している私に対してです。

申し訳ないやら、もったいないやら。

私はそんなことも分からずにこちらがオリンピック選手になったようにうぬぼれて阿弥陀様に向かっているのですから。自力一杯求めているそのことが良いのか悪いのか分かりませんが、この大矛盾に気がつくのは大変な事です。

自力無効とはこのこと。

南無阿弥陀仏しかありませんね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

映画「なぜ生きる」(賞味期限切れ)

ちょっと前に「なぜ生きる」の映画についていろいろブログで言われていました。

そもそも時代考証がデタラメだと言われていますが、ちょっと調べればその事を確認できます。また、ご本尊や腹ごもりの表題がデタラメと言われていますが、それもちょっと調べれば分かります。

また、アマゾンの書籍案内で「なぜ生きる」の書評を読むと親鸞会の実態が分かります。特に★一つの欄を読むと「あ~、そうね」と納得します。たぶん、★4つは親鸞会の会員が書き込んでいるとしか思えない書き込みがほとんどです。

個人的には、山も山さんのブログを非常に印象深く読みました。

親鸞会親鸞聖人の教えを捨てたと言われたのは、本当にそうだと思います。最近のブログの書き込みでもエセ僧侶が親鸞会本願寺派同じだと必死に書き込んでいましたが、言っていることとやっていることが全く矛盾していて、本当の行動にほおかむりして読む人を混乱させようとしているのがよく分かります。

私もそうでしたが、アンチ親鸞会のブログを現役の時は読みながら読んでいませんでした。つまり、頭から嘘が書いてあると思って読むのでまともに読めないのです。

本来真実を説かなければならないのに嘘や捏造された内容が真実だと教えられているのです。混乱しないわけがありません。

 ある意味それほど私の頭はボンクラだと言うことです。真実と嘘を判断する力は、正しい教えを聞いていて初めて判断出来るのですから。

しかし、浄土真宗を表看板にしながら、教えをねじ曲げていることの罪は大きいと思いますね。

どうしようもない映画を見られた一般の人が親鸞会に騙されないことを期待するばかりです。

一方、参議院選挙も終わり、さらに都知事選挙も終わりました。親鸞会の映画など「知らん」会で、もう賞味期限切れの感がします。移り変わりは早いですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

8月21日は嶋田さんの勉強会です。よろしければご参加ください。

メールをいただければ場所等をご連絡します。