とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

勉強会のお知らせ

とくよしみね からのお知らせです。

近年夏に勉強会を行っていましたが、今年も行うことといたしました。

今回はブログ「飛雲」の管理人さん、飛雲さんを呼んで行います。

それ以外に退会者1名と不肖私が感話を行います。

日程は以下の予定で行います。

10時から12時 感話および質疑等

13時から17時 感話および質疑等

お勤めを行います。
日時は8月29日の土曜日です。
場所は、刈谷市総合文化会館(アイリス中央生涯学習センター/502講座室)です。
刈谷駅東すぐです。
どなたでも参加可能ですが、人数制限がありますので事前に連絡をいただけると有り難いです。

新型コロナ対策として、消毒、会場の換気、フェイスマスク等により対応します。

よろしくお願いします。

とくよしみね

新型コロナウィルス

新型コロナウィルスが猛威をふるっています。

現在生きている私達にとって、新型コロナウィルスはこの世で初めて経験する大きな災難と言えるでしょう。

何故なら現代日本人の多くは戦争の経験も、疫病や飢饉の経験もほとんどありません。

だから、このウィルス感染はほとんどの人が初めて直面している大変な問題と言えましょう。

それも、高度に発達した文明のせいで、ウィルスが一気に世界に広まってしまいました。

中国発のとんでもない爆弾が世界中に落ちているのと同じと言ってもいいでしょう。

それくらい沢山の方が亡くなっています。

全人類が死の恐怖に直面しています。

そう言いながらも社会は意外に普通に回っているとも言えます。

なんとも致し方ないのでしょう。

だからじわりじわりと日本国内でも感染が広まっています。

まるで映画のようです。

バイオハザードという映画がありますが、ウィルスに感染するとゾンビになってしまいます。

それが世界に一気に広まり人類を滅亡の危機に陥れます。

そんな映画を彷彿とさせる出来事です。

 

以前も書きましたが人類の歴史上、疫病は幾度となく発生しています。

そのたび人類は免疫を獲得しながら生存し続けています。

親鸞聖人の時代にも同じ様に疫病が流行していました。

それでも生き残っているのだからなんとかなるのではと楽観視している人も多くいることでしょう。

ところが自分が感染し、死ぬかもしれないとなったら「しまった」しかありません。

 

親鸞聖人が門弟に宛てた最晩年八十八歳の時のお手紙が残っています。

 

「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。(略)」

文応元年十一月十三日

親鸞聖人御消息」

・・・去年も今年も多くの人が(疫病や飢饉で)亡くなっているが悲しいことです。しかし、お釈迦様のおっしゃるとおりで無常の世の中であります。驚くこともありません。親鸞は臨終の姿は問題にしません。信心決定の人は命つきなば極楽浄土の人であるから、凡夫でも死ぬのは素晴らしいことなのです。

(現代語訳は以下の例文がありますがちょっとどうかと個人的には思います。:愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです。 )・・・

 

 平安時代の疫病は麻疹(ましん、赤疱瘡:あかもがさ=はしか)と言われています。

そのほかにもマラリア(瘧疾:ぎゃくしつ)などが流行したと言われています。

それ以外にも飢饉もあり京の都で数万人が亡くなったと言われています。

現代も同じです。

いつ死が訪れるのか分かりません。

 

今死んでも後悔ないのか、死んでいけるか。

 

死ぬのは嫌です、死んでいけませんと言われても、死を受け入れることが出来るのか。

何一つ分からない自分ですが、それでも死と直面させられています。

そこに自分なりの回答があるのか。

それとも何一つ回答が無いのか。

 

人それぞれですが新型コロナウィルスだけでなく他の病気や事故でも亡くなります。

死の縁無量です。

 

妙好人の庄松同行は本山にお参りしたとき、御門主に対して「覚悟はよいか」と尋ねられました。

このウィルス感染により、一人一人が庄松同行から「覚悟は良いか」と問われていいるのではないかと思います。

 

皆さん、覚悟は良いですか。

 

・・・お前こそどうだ・・・

 

うーん、どうかな。覚悟はありません。

嫌だ、嫌だと言いながら死んで行くのでしょうか。

そうなりたくはありませんが。

死んだ先は阿弥陀様にお任せですかね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

近年、毎年行っている勉強会を8月29日に刈谷駅の近くで行いたいと思っているのですか、このような状況ですので迷っています。

(8月29日 刈谷 アイリス中央生涯学習センター 502)

今回は飛雲さんと私の感話を考えています。

 

状況を見ながら判断したいと思います。

参加ご希望の方はメール等で連絡してください。

参加人数を把握したいと思います。

また、ご意見等あればよろしく願いします。

 

 

当面読みについて

浄土真宗には当面読みという言葉があります。
あまり聞き慣れない言葉です。
調べてもあまり出てきません。
21世紀の浄土真宗を考える会 くらいです。
そこにも書かれていますがお聖教を普通に読む、書かれたままを通常の読み方で読むというものです。
英語ならば文法通りに読むということです。
親鸞聖人が経典を読み替えられたのは有名です。
読み替えるだけで無く、お釈迦様の御本意を独特に解釈するのが浄土門の根本的な、根源的な所です。
七高僧方はそれぞれ特徴が有ります。
たとえば龍樹菩薩は十住毘婆沙論にお釈迦様のみ教えに難行道と易行道の二つがあることを明確に表しました。
このように親鸞聖人もお聖教を読み替えています。

善導大師 散善義
「不得外現賢善精進之相」
普通に読むと、「外に賢善精進の相を現じて内に虚仮をいだくことをえざれ。」となりますが、

親鸞聖人は、「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮を抱けばなり。」と読まれました。
高森顕徹会でもよく引用されていました)

善導大師 二河白道の譬え
「能生清浄願往生心」
「生」を普通に「生ず」と読むと「白道」を自力と解釈してしまいます。
親鸞聖人は「能生清浄願往生心」の「生」を「生ぜしむ」と読み替えられ他力であると解釈されました。

意味がまるで変わってきます。
当面読みは、まず、そのまま読みます。
その上で不明な点があれば、たとえば書かれた時代背景を考える必要があります。
今の香港を考えてください。
7月1日に施行された香港安全法により言論の自由は厳しく制限されます。
それまでの香港で言われていた言葉使いが一気に変わっていくでしょう。
これが歴史です。

このようにお聖教の読み方も時代背景やその人の能力を推定しないと理解出来ないことが沢山有ります。
お釈迦様は三時を表し時代と共に我々の能力が劣っていくことをお示してくださいました。
そのことをそのまま受け取った上でお聖教を拝読するということが大事なのではないかと思います。
そうでない読み方をするとどう考えても今の自分と合わない所が沢山有ります。
それを親鸞聖人のように読まれると、「あー、そうか。」とうなずけることがあります。

そうは言っても当面読みをするほど沢山お聖教を読んでいるわけではありませんので言葉面だけを語っているのかもしれません。
いずれにしても私を超えた世界の言葉と思えば不思議とそのまま受け止められることがあります。

七高僧親鸞聖人のお言葉を解釈が異なっていても私は「ふーん、違うんだ」ぐらいにしか読めません。
ただただ、自分が凡夫であるところに軸を置くとすべてが違って見えます。
自分を仏に置くとこれは困ったことになります。

お聖教は勝手に読むので無くちゃんとした先生の解説を読むのが、まずは正しく教えを受け止めることが出来るのではないでしょうか。
そういう意味でも高僧と呼ばれた方の本はそのまま読むのが良いと思います。
分からないことは分からないとしておいた方が間違いないのではないかと思います。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

自ら不幸になる道

最近新型コロナの影響でテレビも再放送が多いです。
再放送でも良い作品はたくさんあります。
私は何を見ているかと言えば映画がメインであとはニュースとドラマです。

そんな中、選タクシー という番組があります。
リアルタイムでは見たことが無かったのですが再放送されるということでしたので一度見てみようと思いました。(放送は終了しています)
内容を簡単に言いますと人生のやり直しをするというものです。
タイムマシンに乗って人生をやり直すのです。
それを見て思ったのですが、人は自ら不幸になる道を選んでいくことが多いのではないか。
どうしてそうなるのか。
常に私を基準に選択をしているからではないかと思ったのです。
当たり前と言えば当たり前なのですが改めてそう思ったのです。
自分が一番幸福になるという考えが心の中心に来たとき、その選択はほぼ不幸の道に繋がっています。
私を含め私の回りの人を見ているとそう思うのです。
本人は全く気がついていないのです。
言ってあげたいと思うのですが、間違いなく反感を買うことが分かりますので残念ながらなにも言えません。
そして、自分も同じ選択をしています。
自分が幸せになりたい一心でつかみにかかるのですからカルトでも何でも掴みます。
バランスが悪いのです。
人のため、回りの人のために少し我慢すれば良いことでも、ちょっとでも自分が馬鹿にされたり蔑んだりされたらとたんに牙を剥きます。
そして、相手の弱点を探して噛みついてやろうかと思います。
その感情はマグマのように湧いてきます。


しかればある文には、「一人一日の中に八億四千の念あり、念念の中の所作皆是れ三途の業なり(一人一日中、八億四千念、念念中所作、皆是三途業)」といへり。

拾遺黒谷上人語燈録(厭欣沙門了惠集録)巻中 登山状 第一

ここで「ある文」とは、「浄土菩薩経」と言われています。
浄土菩薩経は、浄土三昧経とか浄度三昧経とも言われています。
昭玄沙門統曇曜の訳とされていますが、北魏時代に撰述された偽経であることが分かっています。
21世紀の浄土真宗を考える会 より引用ー
例の会で刷り込まれた善導大師のお言葉ではありません。

常に選択を間違えています。
だから惑業苦を繰り返します。

ー煩悩ー
『入阿毘達磨論』下に「身心を煩乱逼悩(はんらんひつのう)して相続するが故に煩悩と名づく」(正蔵二八・九八四上)と述べられ、身心をわずらい乱し、苦しめるものと解釈している。
人間は煩悩によって業を形成し、業の報いによって苦しみの生存(輪廻)に繫つなぎ止められる。
これを煩悩業苦(惑業苦:わくごうくともいう)の三道という。


一事が万事このとおりですので不幸にまっしぐらなのですが、不思議なことに阿弥陀如来という仏様とのご縁があるのです。
その仏様によって選択する道を導かれます。
そのお陰か分かりませんが、嫌なことは次々と起きますが最近はなんとなく平々凡々と暮らしています。
選択を間違いながらも導かれている気がします。
何故か分からないが阿弥陀如来様に引かれています。
そして、南無阿弥陀仏を嫌々ながらも称えています。
本当は称えさせられているかもしれませんが。

いずれにしても残念ながら私はこんなものです。
この考え方から自分だけの幸福を願って阿弥陀様を掴もうとします。
どう考えても仏になる道とは相容れない姿です。
阿弥陀様は私をそのまま連れていくと言われていますが、そのままの私とはいかなるものか考えたらとても救われる様なものでは無いことがわかります。
大いなる矛盾です。

世の中の些細なことさえ上記のとおりなのですから、まして仏の悟りを開くなどもっての他です。
それでも私を救うと仰っておられるのです。

私はいつも自ら不幸になる道を選んでいるのですが、常に阿弥陀様に正されているようです。
あとは煮るなり焼くなり好きにしてください。
どうせ私から出てくるのは文句しか無いのです。

申し訳ないことです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

世間虚仮 唯仏是真

今は新型コロナのために世の中が揺れ動いています。
生き残るためにどうするのかあらゆる団体が対策を練っています。
中には火事場泥棒のような商売をしている人たちもあります。
一方で儲かって仕方ない会社もあります。
当然、反対の人たちも多くいます。
そして、ご法話会はほとんど全て中止です。
それでもネットでご法話を頑張っておられる方もあります。

善導大師は、この娑婆世界を以下のように言われています。

四方八方眺むれど、唯、愁嘆の声のみぞ聞く

高森顕徹会もよく使う言葉ですので嫌なのですが、これは事実ですからやむを得ません。

生き残ることができなければ、人知れず死んでいくだけです。
今でも孤独死はあちこちであります。
今は戦争中と同じくらいと考えた方が良いのではないかと思います。

お釈迦様はこんなとき何と仰っておられるのか。

法句経にこうあります。

われらはここ 死の領域に近し
道を異にする人々は このことわりを
知るに由なし このことわりを知る人々にこそ
かくしてイサカイは止まん

私たちは、この地上において、やがて死を迎えなければならない。
この事は本当に気づかない人も多い。しかし、この事実を自覚する人たちの間では、もはや諍いは無くなっていくだろう。

色々な解釈の仕方がありますが、私はこう味わいます。

死はいつも目の前にある。
その事を事実として受け止めたなら、あとはお任せである。
生きるも死ぬも縁次第。

ところが現実は、命も大事だか経済も大事、だからどうするのかと、国会議員達や国などの組織を問い詰めています。
テレビでは連日、このような内容が連呼されています。
そして、テレビと言う箱のなかで話している人達は経済的に問題の無い人ばかりです。
本当に困っている人も中にはいるでしょうが、あまり声は聞こえてきませんし、例え聞こえたとしても私には救う力はありません。
自分のことで精一杯です。
どうしようもないので自分で考えるしか無いのです。
残念ながらこの世はサバイバルなのです。

阿弥陀様にお任せしたところで死にたくないのは変わりません。
法句経のような訳にはまいりません。
じたばたしっぱなしです。
それでも阿弥陀様のお陰で今の私があります。
世間虚仮そのままの私を、現在、ただいま、必ず助けると仰っているのです。
私は虚仮、阿弥陀様は真実です。
南無阿弥陀仏は真実の塊です。

ですから、何が起きても受け止めるしかないのですが、そうはいっても苦しいのは嫌が私です。

私は、このまま、じたばたしながら新型コロナが落ち着くのを待つだけです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

アンコール・ワット


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数年前の事ですがアンコール・ワットの遺跡を見に行きました。

カンボジアにある仏教遺跡なのですが、ヒンズー教も混じった遺跡になっています。

カンボジアでは、憲法で国教が仏教(上座部仏教)と定められており、人口の大半を占める約98%が仏教を信仰しています。

出家して厳しい修行を積み、悟りを開いた者だけが救われるという考え方の上座部仏教です。

もともとクメール王朝時代にはヒンドゥー教が国教とされていましたが、歴代の王が信仰する宗教によって国教は何度も変更され、13世紀中ごろに上座部仏教へと落ち着きました。

この名残もあり、アンコール・ワットも仏教とヒンドゥー教が混ざったような建造物です。

遺跡の一つ、タ・プロームは映画トゥムレーダーのロケ地にもなりました。

ジャングルのなかに蒼然と聳え立つ遺跡は圧巻でした。

そもそもジャングルがどういうところなのか全く想像出来なかったのですが、アンコール・ワット上から見たら果てしなく広い平野に木が一杯という感じでした。

それでよく分かったのですがジャングルに迷い込んだら抜け出せない迷路だと思いました。

日本にはそんなところは北海道の平原か富士山麓の樹海ぐらいしかありませんのでイメージがなかなか出来ないのですが、果てしなく広がる森の中では道に迷っても不思議ではありません。

まして昔ならGPSもありませんので森の深くまで入ることもなかったのでしょう。

ですからアンコール・ワットは都が移された1400年頃から1600年頃までは地元の人しか訪れない忘れ去られた遺跡になっていました。

 17世紀前半には朱印船貿易を通じて日本人にアンコール・ワットの存在が知られるようになりましたが、当時の日本人はこの寺院を祇園精舎と誤って認識していました。

また、通航の増大により、日本から巡礼客が訪れるようになり、1635年の海外渡航禁止まで続きました。

当時の日本人参拝客の墨書はアンコール・ワットの各所に残されていますが、なかでも1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」という墨書は広く知られています。

その後、ベトナム戦争も終わり1979年にクメール・ルージュポルポト派)が政権を追われると、アンコールワットをシンボルにもしている彼らはこの地に落ち延びて本拠地にしました。

アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だったのです。

周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来ます。

また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれました。

当時置かれた砲台の跡も修復されていましたがガイドさんに教えて頂きました。

しかし、遺跡にはこれが災いして祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けました。

内戦で受けた弾痕も、修復されつつありますが一部にはまだ残っています。

今は寺院としての機能を維持しつつ観光施設となっています。

また、ベトナム戦争の被害を受けた傷痍軍人たちが楽器を奏でて物乞いをしている場面にも出会いました。

それと至る所で僧侶に会いました。

また、小さな子供の僧侶も沢山見かけました。

カンボジア北朝鮮と同じ共産主義でしたが割と民主的であり、言論統制されているような感じはしませんでした。(訂正:現在は立憲君主制でした。ただ、昔の流れから北朝鮮とは仲が良いのです。)

やはり国教が定められてるだけあるなと思います。

宗教遺跡を沢山回ったのですが博物館や寺院を見学しなかったのでカンボジアの仏教教義についてはほとんど勉強する機会がありませんでした。

それでもお釈迦様のみ教えの影響のすごさを実感することは十分出来ました。

 

今回は全く阿弥陀様とは関係ない記事になってしまいました。

どうせですので当時の写真もアップしておきます。

どうでも良いことですが王さまもご覧になった女の人の踊りがとても美しかったのを今も覚えています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

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レストランでの アプサラダンス アンコール・ワットの遺跡にも彫られています。

 

追伸

早く自由に旅行できるよう祈るばかりです。

 

 

 

目に見えないもの

今、世の中は新型コロナウイルスのせいで大変なことになっています。
かつて無い経験をしています。
歴史を振り返ればなんども起きていることなのでしよう。
ペストや天然痘コレラに麻疹等は典型的です。
世界中に広まり沢山の方が亡くなっています。
先日もコメディアンの志村けんさんが亡くなりました。
亡くなって初めてその存在の大きさに気づきました。
大変な存在の人だったんだ、沢山笑わせてもらった、そんなこと今まで気づきもしなかった、.......誠にボンクラです。
その人の偉大さも全く感じずにいたのです。
目に見えていてもその価値に気づいていません。

ウイルスは確実に私の回りに存在します。
何故ならしょっちゅう風邪をひきます。
肺炎になる人もいます。
普段は忘れていますが残念なことに間違いなく在るのです。

志村けんさんが亡くなっていつも忘れている死を思い出させてくださいました。
今日が私の死ぬ日かもしれないのです。
しかし、私は今日死ぬとは思っていないのです。
今日死なないとは、明日になっても今日死なないと思うので、ずっと死なないことになります。

私は仏教を聞かせていただいて、阿弥陀様に頼りきって安心しているのです。
南無阿弥陀仏があって良かったと南無阿弥陀仏をあて力にしているので、死なないと思っています。
都合よく阿弥陀様を利用しています。
いくら阿弥陀様にお任せしていても必ず死はあります。
そして本当に阿弥陀様にお任せしているのかが問題です。

私にとっては目に見えないものは、無いのと同じです。
見ない、見たくない、目を塞いでいる、それが私の姿です。
目の前に危機が迫っているにも関わらずに。

南無阿弥陀仏も目に見えません。
声には聞こえますがそれが本当に阿弥陀様とは思えません。
文字にはなっていますが、それが阿弥陀様だとは思っていないのです。
なぜそう思うのか。
簡単です。
信じていないからです。
そして、信じる力が無いからです。
何一つ信じていない、せいぜい目の前に在るお金だけを信じているのかもしれません。
疑うことしか出来ないのです。
もっと言えば、何も分かっていないからです。

生も老いも病も死も何一つ分かっていないからです。
空海さんがおっしゃる通りです。

 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、
 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し

 秘蔵宝鑰

阿弥陀様についても同じです。
阿弥陀様の作られた南無阿弥陀仏は名号と称名に分けて考える考え方があります。
そして、その称名について更に細かく分けて考えます。
その称名について親鸞聖人は大行とおっしゃいました。
そこで皆がよってたかって大行はこうだと言い始めました。
大行については、様々な意見があります。
衆生の称名はすべてお礼、報謝だと言う考え方が主流ですが本当でしょうか。
阿弥陀様が衆生に報謝を誓わせていますか。
テレビから流れてくる南無阿弥陀仏は何でしょう。
阿弥陀様ではないのか。
阿弥陀様でないとしたら何なのか。
単なる音だと言う人がありますが、それを評価する根拠は何か。
あまりに南無阿弥陀仏を小さく捉えているのではないかと思います。
親鸞聖人自身、大行を事細かに分類、分析はされていません。
お念仏について頭で念ずること、口に出して称えること、耳に聞くこと等に分類してそれぞれを評価していません。
教行信証の行巻には数行書かれているだけなのです。

............................
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。...............

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。
............................

そもそも阿弥陀様の本当のお姿は、真如のお姿であり色も形も無いのです。
働きなのです。
私が自覚出来るものばかりとは限りません。
だからこの世界でどのように働いているのか私の想像を越えています。
親鸞聖人も不可称、不可説、不可思議の南無阿弥陀仏とおっしゃっています。
そして南無阿弥陀仏の功徳が満ちていると言われています。


つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。

阿弥陀如来名号徳

五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

正像末和讃


ただただ南無阿弥陀仏阿弥陀様にお任せし称名するだけなのです。

「我に任せよ、我が名を称えよ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

現在、ただいま、落ちるそのままです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


参考

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。
一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。

教行信証 行巻