とくよしみね からのお知らせです。
今年も勉強会を開催したいと思います。
日にちは、8月26日(土)です。
時間は、午前10時から午後5時までです。
場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの会議室です。
講師は、飛雲氏と本願寺派の僧侶による法話を行いたいと思っております。
どなたでも参加していただいて結構です。
よろしくお願いします。
久しぶりに本願寺に行ってきました。
御影堂と阿弥陀堂にお参りさせていただきました。
お勤めを拝見しましたがとてもきれいで有り難いなと思わず思ってしまいました。
簡単な御法話もありましたが一般向けという感じで、仏教の中に入っていくのはよほどのご縁なんだとも思いました。
比叡山にもお参りさせていただきました。
根本中堂は現在改修中でしたが中に入れていただけました。
不滅の灯は三つありました。
やはり有り難かったです。
伝教大師が比叡山をお開きにならなければ源信僧都はじめ真宗の善知識方はお出にならなかったのですから。
比叡山では好相行などなされた方の御法話を聞かせていただきました。
宗教的体験を数多くされており、やはり本場は違うなと思いました。
私にはとても無理な行をこの現代でされているのです。
正法、像法、末法と移り変わり今は末法の時代ですが1万年のうちのまだ1000年くらいしか経っていないのです。
私には分かりませんが、その人たちを見ていると明らかに自信にあふれているのです。
心の平安がある程度はなされているのだろうなと思いました。
仏教を求める人は本当にすごいご縁の人なんだと言うことを改めて思いました。
これは出家、在家にかかわらずです。
出家したから偉いのではありません。
在家だからだめなのではありません。
出家、在家ともに仏法を求める人は貴い人たちなのです。
僧侶、在家ともにいろんな人はいますが、本気で仏教を求めている人が現在にも沢山おられるのです。
おろそかにすることは出来ないと思いました。
仏様の御念力は私に今、届いているのです。
我をたのめ、必ず救う
現在、ただ今、落ちるそのまま
新しい領解文の問題はまだまだ続きます。
問題の張本人が辞任しました。
それも混乱を収めず逃げたとおもわれても仕方ないですね。
さらに、勧学・司教有志の会が記者会見を行い徹底抗戦を宣言しました。
これはこれで本願寺はすばらしい組織だと思いました。
総長とその前に辞めた宗学院長はともに同窓です。
勘ぐるわけではありませんが権勢を二人で我が物にしていたのかもしれません。
伝統教学を排除し新しい改革をしたかったのかどうか分かりませんが、
なんとなく胡散臭いにおいがします。
いずれにしてもこれで門主はどうされるのでしょう。
門主に責任はないと言いますが、門主の意思はどこにあるのでしょう。
門主が信心は大丈夫なのか。
「兄貴、覚悟はよいか?」※
と庄松同行の言われた言葉を思い出します。
さてさて、どうなることか。
阿弥陀様のお仕事はおもしろいです。
※(庄松同行のゆかりのお寺に修正)
庄松さんが同行達と共に、本山にお参りし、後頭剃を受けられた時のことである。御門主が、庄松さんの御頭剃をすまし、次に移ろうとした時に、御門主の法衣の袖をひきとめて「アニキ覚悟は良いか」と申した。御頭剃がおわり、御門主が取次役に、「今我が法衣をひっぱった同行を此処へ呼べ」と取次役へ命じ、取次役が、皆の前で、「今、御門主の法衣をひっぱった同行はどこにいる、御前へでられよ」との仰せじゃぞよ。其れを聞いても庄松は平気な顔をして居たが、つれて行った同行は、驚きすまんことをしたご無礼千万、こんなことなら連れてこなかったらよかった、致方はない我々より御許を願うより道はないと。取次役に申し上るに、誠に恐れ入りますが、此物は馬鹿であります。一文二文の銭さえ数も知らぬ物故、ご無礼の段どうぞ御慈悲で御許を願うと云えば、そうかと云われたまま、其故を御法主へ御伝えすれば『いやどうでもよい、一度此処へつれて来いよ』と命ぜられ、致方なく庄松を御法主の前へつれてきた。
其時御法主『今我が御衣の袖を引張ったのは汝であったか』
庄松『へェおれであった』
御法主『何と思う心から引張った』
庄松『赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄のがれることならぬで、後生の覚悟はよいかと思うて云うた』
御法主『さぁ其心持が聞きたいため汝を呼んだ、敬うてくれる人は沢山あれど、後生の意見をしてくれるものは汝一人じゃ、よく意見してくれた、併し汝は信を頂いたか』
庄松『へェ頂きました』
御法主『其得られた相を一言で申せ』
庄松『それは阿弥陀様に聞いたら早う分かる、我の仕事じゃなし、我に聞いたとて分かるものか』
御法主庄松の答えを聞いて非常にご満足なされ
『弥陀をたのむと云うもそれより外はない。多くは我機をたのみてならぬ、お前は正直な男じゃ、今日は兄弟の盃をするぞよ』と召使のものを呼び、御酒をとりよせ、御法主の御酌で、御馳走になりた」と。一生の間、御法主様を、あにきとより外云われなんだが庄松である。
浄土真宗 本願寺派 勧学・司教有志の会 からの新しいご意見が掲載されましたのでリンクを以下に貼っておきます。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100091286410899
今回はこのご案内です。
どうも本願寺派の事務総長と宗学院長が「新しい領解文」を作成したと噂を聞きました。
本当の所はよく分かりませんが、最近宗学院長が辞任されました。
(内藤智康和上のご逝去に伴い新しい方が就任されたのですが、任期前に辞任されたそうです。)これは間違いです。訂正します。
このほかいろんな活動がされているようです。
個人的感想ですがロシアの戦争と同じで一度振り上げた拳というか旗を降ろすにはいろいろな条件が必要なんでしょうね。
本人たちも「しまった」と思っていることでしょうが、そんなことをおくびにも出せません。
ここが人間の弱いところです。
過ちを認めるなら早いほうが傷が浅いのです。
しかし、出来そうで出来ないことなのです。
所詮、総長とか院長とか言っても凡夫なのです。
大統領だって同じです。
そこを間違えると自分が偉大な存在と勘違いする人が多くいます。
それで失敗する人が沢山います。
歴史は繰り返すのでしょうか。
とにかく早くあの「駄文」はやめられた方が良いと思うのです。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100091286410899
Facebook に上記のサイトがあります。
そのなかで「新しい領解文」について問題提議されています。
さすが本願寺です。
良識ある人が多くいます。
そこで無帰命安心について間接的に言われていると私は受け取りました。
これは私の強い思いですが、「新しい領解文」は無帰命安心の者が書いた文章と言わざるをえません。
阿弥陀様のお慈悲に遇わせて頂いていたならあんな文章は書けません。
我が機(身)を横に置いておくのは大事ですが、何もしない「そのまま」とはある意味「すべての人が既に救われている」と言っているのと同じと思うのです。
今回の「新しい領解文」はそういう誤解を受ける可能性がある文章です。
前回の記事でも書きましたが「すべての人が既に救われている」となったら法を求める必要がありません。
浄土真宗も当然仏教ですので目指すは仏の悟りです。
その仏になるための御信心を求める必要が無い、後生の一大事を解決する必要が無いことになってしまいます。
令和の三業惑乱と言っても良いと思います。※1
これでは、仏教ではありません。
それと最後数行に生き方まで強制していますが、これも問題だと思います。
今回の「新しい領解文」は積極的に廃止すべきと思います。
※1三業惑乱
本願寺派において学林(新義派)と在野の学匠(古義派)との間で三業安心をめぐって生じた教学論争。
功存(こうぞん)が無帰命安心の異義を破すために願生帰命と三業安心を主張し、宝暦12年(1762)に『願生帰命弁』を著し、宝暦14年(1764)に同書が刊行されたことを端緒とする。その後、功存は明和6年(1769)に学林の能化に就いたが、その学説に対する批判が次第に大きくなる。功存の没後、寛政9年(1797)に能化に就いた智洞(ちどう)もまた、願生帰命・三業安心を強調したため、同年、安芸国(現在の広島県西部)の大瀛(だいえい)が『横超直道金剛錍おうちょう-じきどう-こんごうへい』を著して新義派を詳細に批判するなど、新義派と古義派との間で議論の応酬が相次いで、事態は急速に深刻化していった。
そしてこの問題は『領解文』の「たのむ」の理解に関わるものであったため、学匠間の論争にとどまらず、地方の門徒をも巻き込む暴動にまで発展し、本願寺だけでは事態を収拾することができず、ついに幕府の介入を受けることとなる。享和3年(1803)に京都の二条奉行所より双方の関係者が取り調べを受け、翌文化元年(1804)年には新義派から智洞らが、古義派から大瀛や道隠らが幕府に招喚され、それぞれの意見が聴取された。文化2年(1805)、本願寺第19代本如は新義派が不正義であると裁定し、翌3年(1806)、幕府は新義派を中心に双方の関係者を処罰し、本願寺もまた100日間の閉門となった。同年11月、本如は『御裁断御書』『御裁断申明書』を示して前後10年に及ぶ騒動が教義的に決着した。この後、能化職が廃止され、複数の勧学職を置くようになり、また宗意安心について精密な研究が進んだ。(浄土真宗辞典より)