とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

南無阿弥陀仏が救いの証拠という言い方の違和感

阿弥陀様の救いの証拠は南無阿弥陀仏と良く云われます。

そういう私もたまに使いますが使い方を気にしています。

多分、多くの方が使っていると思います。

 

最近、youtubeで加茂仰順師(聞思庵)の御法話が沢山出てきています。

とても有り難いです。

地獄行きとかも当たり前のように言われています。

救いの縁、手がかりがこちらに一切無いことも強調されています。

その上でご信心を頂けとたたみかけるように言われます。

迫ってくるものがあります。

阿弥陀様のお力が届いていることも同時に言われますが、南無阿弥陀仏が証拠という言い方は聞いたことがありません。

さすが勧学です。

亡くなってもう何年もたちますが御法話は今生きて私に届いています。

そういうお話を聞くにつけ、どうも他の人の御法話が気になります。

 

同じように無条件だと言われることもあります。

無条件の救いというのは、何もこちらに条件は無いということなのですが、ならば、この身このままで何も言うことはないのか。

本当に大丈夫なのか。

 

どうしても、本当にこれでいいのかな?という疑問がわいてきます。

なんとなく救われた気持ちがしないとか、ぼやーっとしているとか、あるときは有り難いがどうしても救われたとは言いがたい気持ちがする人はいると思います。

 

私の知り合いは、自分はこのままで良いのだから何も煩うこともない、信心いただいたんだと思ってみても、しばらくするとどうしても納得できなくなって聞法を繰り返していたと言います。

どうしたらご信心が頂けるかの思いが抜け切りません。

そして、あるときすでに届いていたと気づかされたときから、救われていないとは言えないと言うようになりました。

本人に聞いてみるとご信心を頂いたと大きな声では言えないが、ご信心を頂いていないとはどうしても言えないと言われました。

阿弥陀様のお慈悲に遇っていないとは言えないと。

 

これは本当に大きな違いです。

 

何とも言えない、救われた気がしないなどぼんやりした状態からの脱却です。

そういう世界があると言われます。

 

ここが大事なところであり、蓮如上人が御文章で信心を獲れと口を酸っぱくして言われたところだと思います。

受け取ったのか、受け取っていないのか、どっちなんだと。

親鸞聖人は不思議、不思議と言われました。※1

 

執持抄 覚如上人

平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし。

 

歎異抄第一章

弥陀の本願には、老少、善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。

 

そう言われる所以のところです。

 

仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし ※2

 

私はこれが一番大事だと思うのです。

 

確かに救いの証拠は南無阿弥陀仏ですが、それを頂くのは私です。

この私が抜けてしまっては誰が頂くのか、そして、頂く私はどんなものなのか。

機と法、その二つで一つのご信心と味わうべきだと思うのです。

 

妙好人のお園さんは以下のように言われています。

 

機を見ればどこをとらえて正定衆、法に向かえば嬉し恥ずかし

 

私の好きな言葉です。

南無阿弥陀仏が救いの証拠、無条件の救い、切符が届いているなどとという表現は、「すべての人が既に救われている」などと同じような受け取り方をする危険性があります。

 

いわゆる無帰命安心です。

 

領解文

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

 

最近、南無阿弥陀仏が証拠という言い方が気になります。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

いつつの不思議をとくなかに

 仏法不思議にしくぞなき

 仏法不思議ということは       

 弥陀の弘誓になづけたり

高僧和讃曇鸞和讃)

五種不可思議。

衆生多少不可思議。衆生の数が無量無辺で尽きないことの不可思議。

② 業力不可思議。各人の業の力により受ける果報が千差万別である不可思議。

③ 竜力不可思議。竜神が風雨をおこす不可思議。

④ 禅定力不可思議。禅定の力により神通をあらわす不可思議。

⑤ 仏法力不可思議。仏法の力により衆生にさとりをひらかせる不可思議。

 

 

「解説は本願寺派ホームページより」

不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり

信心の正因うることは かたきがなかになほかたし

正像末和讃

阿弥陀如来は、人智を超えた不思議の仏智を信じることを報土往生の正因と定められました。報土往生の正因である真実の信心を獲ることは難しいことの中でもさらに難しく、これ以上の難しさはありません。

信心の正因(不思議の仏智を信じる)

阿弥陀如来の本願は、本来、悟りにいたることの出来ない凡夫を、信心一つで悟りにいたらせようとする願いである。この本願は、人間の常識やはからいを超えている。この不可思議の本願を疑いなく信じるこころこそ、浄土へ往生する正しき因である。

・私達は信心を恵まれたその時、如来の光明のなかに摂め取られ、往生成仏する身に定まる。煩悩具足の凡夫のまま、仏となることに正しく決定せしめられることこそ、浄土真宗の救いである。

仏説無量寿経』には、「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」(註釈版82頁)と説かれています。

 

※2

顕浄土真実教行証文類 信巻

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形あらわすの貌かおばせなり。「乃至」といふは、多少を摂するの言ことばなり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

 

新しい領解文?

領解文(原文)
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

本願寺釈法如(花押)

 

本書は、真宗教義を会得したままを口に出して陳述するように第8代宗主蓮如上人が作られたものとされ、山科本願寺落成の頃から読むようになったといわれている。
大谷派では『改悔文』とも称する。
内容は簡潔で、一般の人にも理解されるように平易に記されたものではあるが、当時の異安心や秘事法門に対して、浄土真宗の正義をあらわしたものである。
 第1の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀如来の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他の安心が示されている。
 第2の報謝の段には、信の一念に往生が定まるから、それ以後の念仏は報恩にほかならないという、いわゆる称名報恩の義が示されている。
したがって、この第1・第2の両段において、信心正因・称名報恩の宗義が領解されたことになる。
 第3の師徳の段には、上記の教えを教示し伝持された親鸞聖人や善知識の恩徳を謝すべきことが述べられている。
 第4の法度の段には、真宗念仏者の生活の心がまえが示され、『御文章』などに定められた「おきて」にしたがって生活すべきことが述べられている。
(wikiarcより)

本願寺新報 
2023年1月16日
・・・略・・・
浄土真宗では蓮如上人の時代から、自身のご法義の受けとめを表出するために『領解文』が用いられてきました。
そこには「信心正因・称名報恩」などご法義の肝要が、当時の一般の人々にも理解できるよう簡潔に、また平易な言葉で記されており、領解出言の果たす役割は、今日でも決して小さくありません。
しかしながら、時代の推移とともに、 『領解文』の理解における平易さという面が、徐々に希薄になってきたことも否めません。
したがって、これから先、この『領解文』の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読、唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるような、いわゆる現代版の 「領解文」 というべきものが必要になってきます。
そこでこのたび、「浄土真宗のみ教え」に師徳への感謝の念を加え、ここに新しい「領解文」 (浄土真宗のみ教え)として示します。


 南無阿弥陀仏
「われにまかせよそのまま救すくう」の弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ
「そのまま救すくう」が弥陀のよび声
ありがとうといただいて
この愚身(み)をまかす このままで
救い取られる自然の浄土
仏恩報謝のお念仏
これもひとえに宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された歴代宗主の
尊いお導きによるものです
み教えを依りどころに生きる者となり
少しずつ執われの心を離れます
生かされていることに感謝して
むさぼりいかりに流されず
穏やかな顔と優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い
日々に精一杯つとめます


 この新しい「領解文」 (浄土真宗のみ教え)を僧俗を問わず多くの方々に、 さまざまな機会で拝読、 唱和いただき、み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わることを切に願っております。
二〇二三年 令和五年一月十六日
龍谷門主 釋 専 如

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは2021年4月15日に新門主がご親教として話されたお言葉が基本です。
浄土真宗のみ教え」(ご親教)です。
それに一文を加え、そのまま新しい領解文として使われています。

「なんでもありか?
本願寺さん、大丈夫?
信心ない人ばかりか。」

そう思われている人も多いと思います。
まあ、この言葉を聞いて本願寺に興味を持つ人が増えるような気はしません。
肯定するわけではありませんが、S会は人を引きつけるのは相当うまいと改めて思います。
また、肝心の後生の一大事がどこかへ行ってしまったのは非常に残念です。
ただ、改めて2021年4月15日のご親教を読んでみるとそこまでひどくはないなと思います。

そうは言っても現代人に宗教を伝えるのは骨が折れることです。

認めるつもりはありませんが、さんざん考えた結果が上記の文章になったのだなとは思います。

領解文は個人的には、原文が一番良いと思います。
きれいな文章だと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2023年が始まりました

2023年が始まろうがどうということもありませんが、人それぞれいろんな思いがあると思います。

とにかく今生きて新しい年を何事もなく迎えることができることは本当は奇跡に近いことなのに、そう思えない私のいかに知恵のないことか。

当たり前などないのに当たり前と思っていることが迷っている証拠です。

今更いうことでもないかもしれませんが、世界では戦争が続いてたくさんの人が亡くなっています。

それ以外にも迫害を受けて死んでいる人もたくさんいます。

 

幸いにも私は気楽にずーっとこの幸せが続くと思って暢気にお酒を飲みながら正月を過ごしています。

 

しかし、私が暢気に過ごしていようがいまいが阿弥陀様は関係ありません。

24時間、365日休みなく私に南無阿弥陀仏と働いてくださっています。

私が分かろうが分かるまいが関係ありません。

 

光明無量、寿命無量の南無阿弥陀仏です。

 

このお正月、元旦から3日間ご法話真宗高田派では行われるそうです。

これを修正会といいます。

高田派から引用した内容は以下の通りです。

・・・・・・・・・・

修正会には必ず「繙御書(ひもときのごしょ)」が拝読されます。ひもとくとは巻物のひもをとくという意味です。1年の始めに拝聴する御書のことです。この御書は、第18世の圓遵上人(えんじゅんしょうにん)がお書きになりました。大変な長文です。年のはじめにあたって忘れてはならない仏法の要をわかりやすく説かれており、克明(こくめい)に求道(ぐどう)のこころを諭してくださっています。


 その要旨を箇条書きにすると以下のようになります。


1、生者必滅(しょうじゃひつめつ)の道理。寿命は老少不定(ろうしょうふじょう)の世の中だから、新年を迎えて喜んでもいつの間にか夏がきて秋暮れて、また1年が経ってしまう。1日1日を無駄に過ごさぬよう。
2、身にしてはならぬこと、口に言ってはならぬこと、心で思ってはならぬことがある。因果応報(いんがおうほう)の業道(ごうどう)は、秤のように必ず重い方に牽くから身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう)を常に慎むこと。
3、 煩悩(ぼんのう)いっぱいのわれらは、他力念仏(たりきねんぶつ)の法に依らねば浄土往生(じょうどおうじょう)は不可能です。この道を誓われた阿弥陀仏(あみだぶつ)、この教えを伝承されたお釈迦さまと七高僧(しちこうそう)の広大な恩徳(おんどく)に報謝(ほうしゃ)せよ。
4、先ずは父母孝養(ぶもきょうよう)の心を第1とし、父母存生(ぶもぞんしょう)の日は孝順(きょうじゅん)を先とし、没後は法事を怠ることなく報恩(ほうおん)につとめよ。そして、六親眷属(ろくしんけんぞく)むつまじく、互いに信心をみがきなさい。

・・・・・・・・・・・

仏法第一とは言え、やはり正月早々喧嘩したり争うことはやめて仲良くしましょうということを言われるのはそういう相談がお寺に多かったのかなと思います。

昔は同居が当たり前で嫁は姑に仕えるのが当然だったのでいろんな問題が沢山あったのでしょう。(時代を考えるとちょっと違いますね(^_^;))

今の時代は同居が少ないでしょうが嫁と姑は問題は相変わらず多いのでしょうね。

それより一番問題なのが3番の内容でしょう。

他力念仏一つを聞くことでしょう。

 

今年もお念仏を称えさせていただく一年になれば幸せです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

人は独り、一人の宇宙にいる

前回の「ツレがうつになりまして。」を書いてからやはりそうだよなと思ったことです。

人は結局「独り」で、その中で「一人」で生きているのが本当の姿なんだと。

人間界とはそういう世界です。

 

有無の見に支配され真実を真実とみることが出来ないそんな迷った存在にとって「私」は他の誰でも無くただ「一人」であり同時に「独り」なんだと言うことに気づかされるとこんな言葉が出てきます。

 

「私の気持ちは誰も分かってくれない」

「私独りが不幸だ」

「他のみんなは幸せそうだ」

「この世の中で私一人が正しい」

「他の人の考えは間違っている」

「あいつは馬鹿だ」

・・・・・・

 

その世界から出ることが出来ないので同じような感性を持った人を見つけて仲間を作りそこにいれば安心出来るのです。

私という世界、私の造った宇宙にいれば安心です。

共感できる部分だけ入ることを許し、気分でその範囲はころころ変わっていきます。

共感できない部分はかたくなに扉を閉じて誰も入れません。

 

このことに気づいていればまだ良いのですが、ほとんどの人はそれが絶対正義という言葉で固められているので他人だけでなく家族でも軋轢を生む原因となっています。

「思い込み」という言葉で表すこともできます。

 

最近「ホリエモン」のyoutubeをいくつか見ました。

その中で彼が言っていたことが印象的でした。

「有る番組(サンデージャポン?)で意見を言うのだけど同意してくれる人がいない、俺だけ浮いている・・・・」というようなことを言っていました。

彼の言うことは割とまともで「そうだよな」と私は思うのですが、他の人には言葉が通じないと言うのです。

勉強不足のようなことも言っていましたが個人的には「自分の都合の良いようにしか物事を考えない」「他の意見を受け入れることは無い」と言うことなんじゃないかなと。

もう少し具体的に言えば「周りの雰囲気を見てそれに同調しているだけ」なのではと思うのです。

 

当たり前のことですがテレビで本当のことを言ったらすぐに出演出来なくなるでしょう。

テレビとはそういうところです。

ですから仏教など嫌いなのです。

「今死んだらどうする」

なんてことを言われたらそれこそ出て行けです。

 

本質を求めている人にとってはテレビとはどうでも良い世界です。

しかし、それが世の中を動かしています。

有るテレビ局の入社式に社長が新入社員に向かって「君たちが世の中を動かしているのだ」ということを言ったと聞きます。

傲慢にもほどがありますが「そんなものなんだ」と思いました。

 

話がずれましたが「人は独り、一人の宇宙にいる」ため真実を受け入れる力はありません。

だから外からの力によって真実と向き合うことが出来ます。

それは人それぞれのご縁によって様々ですが真実に出会うことが出来た人は本当に幸せだと思います。

 

また、真実だと思っていてもそれが本物かどうかはいろんな人に教えていただかないと判断できません。

最近なにかと話題の統一教会と既存の宗教と何が違うのか正しく話し理解してもらうことは本当は難しいと思います。

個人的には統一教会伝統宗教と呼ばれる団体とは全く異なる団体と思っています。

統一教会が真実だと思っている人にとっては、伝統宗教など問題外です。

一方、伝統宗教からしたら可哀想な人たちとなります。

ところがお金を集めて人を導くということについては同じです。

何も変わりません。

ですからマインドコントロールを犯罪とするのは無理なのです。

あくまで民法上及び刑法上の判断しか出来ません。

 

どちらの生き方を選ぶのかは自由です。

問題の本質は、私の苦しみを除いてくれる教えはどれかです。

全てを放りだして身軽になって神様の許しを得ることが出来たから私は幸せと思うのならそれでその人は幸せです。

神に召されていくのだと信じて生きることが出来るのです。

そういう仲間もたくさんいますから安心です。

 

・・・・本当ですか?

 

お釈迦様は四聖諦を顕(あらわ)されました。※1

 

問題提起をしてくださったのです。

それに答えも用意してくださいました。

 

どちらを選ぶのかはその人の自由です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

※1

釈尊が最初の説法で示された四つの真理。四聖諦(ししょうたい)の略。

①苦諦(くたい)人生は苦であるという真理。

②集諦(じったい)苦を招き集める原因は煩悩であるという真理。

③滅諦(めったい)煩悩を滅尽することによって、苦のない涅槃寂静の境地が実現するという真理。

④道諦(どうたい)涅槃寂静の境地に至るためには、八聖道(八正道,八聖道分)を実践せねばならないという真理。

このうち①②は迷いの果と因、③④はさとりの果と因をあらわす。

 

 

 

映画 ツレがうつになりまして。

映画 「ツレがうつになりまして。」 を見ました。

とても良い映画でした。

考えさせられることが多くありました。

個人的には何人か知っているので症状など良く理解できました。

うつが治癒することを寛解(かんかい)といいます。

普通病気が治れば全快と言いますが、精神病についてはそういういい方はしません。

再発率が結構高いので治っている状態がしばらく続いているという意味らしいです。

ツレがうつになりまして。」のツレさんは今は寛解しているそうです。

それで時々考えるのですが仏教はうつに役立つのかと。

実際、仏教は厳しい教えです。

結論から言うととてもウツ状態の人に話しても伝わりません。

無理です。

そっとしておくのが一番です。

 

悲しみにくれている人には冷たい北風は辛すぎます。

暖かい日光が必要なのです。

 

そういう意味でいうと「そのままでいいんだよ」という言葉は本当にありがたく思います。

 

「そのままでいいがな」 相田みつを

汝一心正念にして直ちに来たれ 善導大師

本願招喚の勅命 *1

 

慈悲の心と言ってもいいのだと思います。

どんな人も生きていていいんです。

そうは言っても犯罪を犯した人は罪を償わなければなりません。

残念ながら自分の撒いた種は必ず生えてくるのです。

そこは造悪無碍に走ってはいけません。

 

お釈迦様はおっしゃいました。

 

「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほうがすぐれている。」
ダンマパダ ブッダの真理のことば・感興のことば  (法句経)

 

法を聞く人生は法を聞かない人生よりも価値があると。

何のために生まれてきたのか、それは法を聞くために生まれてきたのです。

法とは真実です。

 

そんなものこの世の中にあるものかと思う方も多いと思いますが、私は真実がこの世の中にあると思います。

永遠の過去から生死を繰り返し今も迷いの世界にいる私です。

それが真実です。

そのことを仏教が教えてくれました。

阿弥陀仏とのご縁で知ることが出来ました。

 

病気がよくなってから法を聞けば良いのです。

「いや、治らない病気で苦しんでいる人もいるでしょうが。」

そういう人には別の手立てが用意されています。

臨終説法です。

 

うつは病気です。

体を休めよというサインです。

病気になったら無理せずに休むことだと思います。

いろいろ大変な世の中です。

生きていくためにはそんなこと言ってられないと思うかもしれませんが、今の日本はいい国です。

無責任な言い方かもしれませんがなんとでもなると私は思います。

 

ツレがうつになりまして」を見てそんなことを思いました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

*1

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり]、また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

教行信証 行巻
現代語

 そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服(えっぷく)のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息(しゃそく)のことで「やどる、安らかにいこう〔憩〕」という意味になります。
説の字には、悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。 (「帰命釈」現代語)

人はどこかに所属することで安心する

最近、統一教会が世間を騒がせています。

一部では安倍元首相が殺害された原因が統一教会と言われています。

殺人犯は、統一教会により家族の財産をむしりとられ、一家崩壊に至った原因は、安倍元首相が統一教会を庇護しているからだと逆恨みをしたとも言われています。

芸能人の合同結婚式と言い、霊感商法と言いいろいろ問題がある団体です。

教義等については漫才コンビオリエンタルラジオの中田が「中田のyoutube 大学」で詳しく説明していますので興味がある方は見てください。

一つだけ言わせて頂くと、洗脳のプロセスはこういうふうに行うのかということがわかります。

1980年代は各地の大学に原理研という名前でサークル活動されていました。

勝共連合とも言われていました。

勧誘は活発に行われていました。

統一教会に入っていつの間にかいなくなったという噂も聞いたことがあります。

 

一方、宗教に限らずスポーツなどをはじめとする様々な団体が世の中にたくさんあります。

それぞれ皆さん人生を楽しんでいます。

宗教もある意味仲間と一緒にいると連帯感がうまれ楽しみの場所となります。

それが統一教会の場合でも同じだと思います。

そういう視点から考えると人はどこかに所属していることによって安心が得られると思います。

仲間が大事になってくるのです。

裏を返せば自分が仲間の一人と認識することによってアイデンティーが満たされます。

自分が一番大事なのです。

逆に友達もいない一人でいると仲間はずれになったり孤独に陥ります。

自己肯定感も低くなりがちです。

誰かに認められることもないと生きているのがつらくなります。

そんな状態に仲間からそこにいて良いんだと言われるとカルトであろうがなんであろうがしっかり握ってしまうことでしょう。

人はそれほど強くはありません。

 

考えてみると私もいろいろな団体に所属しています。

まずは家族です。

次に仕事です。

そして趣味の団体。

さらに宗教関係の団体とこれだけでも4つの団体に所属していることになります。

それぞれの団体でそれなりの活動を行い私の存在を承認されていると思っています。

もし、一つも無いとしたらどうでしょうか。

やはり不安でしかないと思います。

 

学生が学校を卒業して就職できないとしたら不安で仕方ありません。

みんな必死に就職活動をしています。

どこかに所属したいのです。

所属すれば安心して会社の仲間と飲み歩いて憂さを晴らすことができます。

しかし、一人だったらどうでしょう。

 

ところが仏教に関してはお釈迦様は独り立ちせよと言われます。

 

「犀の角のようにただ独り歩め」

ブッダの言葉 スッタニパータ 中村元

 

75首あるのですがこのなかのひとつにこういうのがあります。

「仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また、子らに対する愛情は甚大である。愛しき者と分かれることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め」

 

仲間といれば楽しいのです。

そこには遊び戯れ歓びがあると言われます。

また、家族は特にそうです。

そこを離れ独りで歩めと言われています。

 

 

無理ですね。

 

とてもできません。

出家者は特にそうでなければならないのでしょうが、今の時代にはほとんどいないと思います。

在家においても一人で歩むのは大変です。

そうは言っても独りで歩むことが出来たらこんな強いことはありません。

何者にも遮られることなく自由に進むのは楽なんでしょうね。

 

多数派に所属していれば安心感もひとしおでしょう。

でもそこで本当の自由が得られるとは限りません。

何かを得たら何かを捨てなければなりません。

この世の中のことは、結局何か持っているようで持っていないのです。

 

有無同然という言葉があります。

 

やはり、仏教は本質的に厳しい教えですね。

 

同じ仏教でも浄土門の教えは本当に私のための教えです。

これが無ければ私には安心も何もない人生になってしまいます。

こんなことを言っては何ですが、

「あって(遇って)よかった南無阿弥陀仏

です。

阿弥陀様と一緒なら「犀の角のようにただ独り歩め」も出来るかも??、いや、やっぱり無理ですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

胸が苦しい

「なぜだろう。

胸が苦しい。」

 

幼稚園児が幼稚園バスに閉じ込められ熱中症で亡くなったという事件が起きました。

これで最近の事件として2件目です。

1件目の時も嫌な思いがいっぱいしましたが、今回はさらになぜか心がざわついて仕方が無いのです。

ニュースを聞くのも嫌になってきます。

家で話が出ると「やめてくれ」と叫びたくなります。

 

「どうもこうも可哀想で可哀想で仕方が無い。

心が張り裂けるようだ。

自分の子供だったらと想像すると「子供を、娘を返せ!!」と狂ったように叫ぶだろう。

宿業なんて言葉で片付けたくは無い。

分かってはいるが本当に残酷な事件だ。

また、幼稚園の理事長の身勝手さも腹が立つ。

「腹を切れ」と言いたくなる。

しばらくはそんな感情に振り回されるのだ。」

 

よくよく考えてみれば世界では同じような事件が至るところで起きています。

ウクライナでは爆弾で子供の多くが亡くなっています。

アフリカでは飢餓で子供たちが死んでいます。

北朝鮮でも同じことが起きています。

私が小学校でアフリカは飢餓の人が多いと教えられてから今も同じ状態が続いています。

結局、権力闘争に明け暮れ人々の幸せよりも自分の煩悩を優先する指導者たちによって引き起こされているのです。

アフガニスタンタリバンによってまた貧困状態に陥っています。

そういう話は耳にずうっと入ってきていますが、それでも今回の事件は私の心をざわつかせました。

身近に感じてしまっているのです。

 

「どうしてその子はこの世に生まれてきたのか。

何のためにと。

仏教を知らせるためにこの世に生まれてきたのだど言うこともできるかもしれない。

世の無常を知らせるためと。」

 

夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり

和泉式部

 

何が和泉式部にあったか分かりませんが子供が亡くした悲しみは察するににあまりあります。

書いているうちに少し楽になった気がします。

末法は煩悩濁、衆生濁(五濁のうちの2つ)※1の時代になるとお釈迦様が予言されています。

人間の劣化が進んでいるのかもしれません。

仏説まことと言わざるを得ません。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

五濁

末世においてあらわれる避けがたい五種の汚れのこと。

①劫濁(こうじょく)。時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。
②見濁(けんじょく)。思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。
③煩悩濁(ぼんのうじょく)。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)等の煩悩が盛んになること。
衆生濁(しゅじょうじょく)。衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること。
①命濁(みょうじょく)。衆生の寿命が次第に短くなること。


阿弥陀経
舎利弗、われいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、わが不可思議の功徳を称説して、この言をなさく、〈釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ〉と。

舎利弗、まさに知るべし、われ五濁悪世においてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とす」と。