疑いに二つあると親鸞会時代に教えられた。阿弥陀仏の願を疑う疑情と煩悩でなんでも疑う疑煩悩と。
疑情は阿弥陀仏の救いを疑う心であり、その心により救われない。
ところが疑煩悩の中身に阿弥陀仏の本願を疑う心が含まれないのかというと
含まれるのである。
この疑煩悩は信後も無くならない。
では、結局疑いの心はどうなるのか。
疑いの心も含めすべてを見越してそのままの救いなのである。
では、疑いがあって良いのかというとあって良いが、それが救いの妨げになっているとしたら問題なのだが、救いに対して疑いが全く問題でないならそれで良いのである。
つまり、信後に阿弥陀仏の本願を疑おうが疑わまいが、それが問題外となる。
阿弥陀仏の視点に立って私を見たら、ただ、私を救うのである。
そこに必要な信心とは二種深信であるが、これがまたうまく出来ている。
機無、私は落ちるに間違いなし。
円成、回施は南無阿弥陀仏で救われるに間違いなし。
機無に疑いが無ければ円成、回施に疑いが無くなる。
紙の裏と表なのだ。
結局、私の側は落ちるに間違いなし。仏の側は救うに間違いなし。
そうなると疑いは入る余地が無い。問題で無くなるのである。
後はお好きなように生きてくださいなのだ。
疑いが問題になっている間は、そのことを徹底的に見ていった方が良いと思う。
かならずその疑いが如何にアホなことか気がつくときが来る。
とにかく阿弥陀仏の本願はうまく出来ているのである。
煩悩具足の衆生にぴったりな教えなのだ。
だってお目当ての機ですから。