二河白道の譬え話については、いろいろ言われていますが、本来の意味は以下の通りです。
*釈迦の発遣
東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。
*弥陀の招喚
西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、「なんじ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんじを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。
親鸞聖人 善導大師和讃
善導大師証をこひ 定散二心をひるがへし
貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ
二河白道の譬え
「二河白道の譬え」とは、七高僧の第五祖である中国の善導大師が『観経疏』「散善義」に示されるものでこの譬えは貪瞋二河の譬喩ともいわれ、浄土往生を願う衆生が、信を得て浄土に至るまでを譬喩によって表したもので、その内容は以下のようです。
ある人が西に向かって独り進んで行くと、無人の原野に忽然として水・火の二河に出会う。
火の河は南に、水の河は北に、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほど(50~60メートル)であるが、深くて底なく、また南北に辺はない。ただ中間に一筋の白道があるばかりだが、幅四五寸(12センチ~15センチ)で水・火が常に押し寄せている。
そこへ後方・南北より群賊・悪獣が殺そうと迫ってくる。
このように往くも還るも止まるも死を免れえない(三定死)。しかし思い切って白道を進んで行こうと思った時、東の岸より「この道をたずねて行け」と勧める声(発遣)が、また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がする。
東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが顧みず、一心に疑いなく進むと西岸に到達し、諸難を離れ善友と相見えることができたという。
火の河は衆生の瞋憎・瞋恚、水の河は貪愛・貪欲、無人の原野は真の善知識に遇わないことに譬える。また群賊は別解・別行・異学・異見の人(本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人)に譬え、悪獣は衆生の六根・六識・五蘊・四大に喩える。また、白道は浄土往生を願う清浄の信心、また本願力をあらわすのです。
これが一般的な二河白道の譬えの解釈です。
既に仏教を聞かせていただいている現在、これ以上何をするのか。
大事なことは、川岸から白道に一歩踏み出すか、踏み出さないかが一番大事なところです。お釈迦様が発遣、勧められ、阿弥陀様が招喚、呼ばれていることです。
そこが今なのです。今、現在、お釈迦様が勧められ、阿弥陀様から呼ばれている、だから、現在ただ今、今現在説法なのです。
私は何も出来ないが、勧められるままに一歩を踏み出す、そこが白道なのです。
南無阿弥陀仏と称えながら一歩踏み出すのです。
くどいようですが煩悩は関係ない、そのまま行け、必ず救うぞと両方からのお力かかっているから間違いがない救いなのです。
そういう話を聞かせていただいているのです。
まして三願転入など全く関係ありません。
どこかの団体の訳の分からない話とは全く違いますので、よくご注意下さい。