とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

「貴方は地獄行きだ」と言うと「機責め」と言われることについて

言葉と言うものは本当に難しいものです。
今回は、機責めについて考えてみたいと思います。

ご存じのように機とは私たち人間のことを言います。
心と体を含めた私をひっくるめて機と言います。
私達は外からの影響でいかようにも動く機械のような者なので「機」と言います。
人は生まれ育った世界によって考え方が大きく違います。
簡単に言えば世界中色々な国で色々な価値判断による文化があり、その国の影響を受けて皆さん生きています。
機械のようにその国の政治、文化や歴史の力に頭も身体も支配されている人がほとんどですね。
当たり前のことですが仏教を信じていない人に仏教を理解させるには相当勉強してもらわなければなりません。
要するに外からの知識や経験を与える必要があると言うことです。
価値観の異なる人と会話をすると刺激もありますが相当疲れます。
まったく人間とはやっかいなものです。

その機を責めると言うのは何に基づいて責めるのかです。
私を責める基準です。
まず、機と言われる私は心と体で悪を作っているから死んでも良いところには行かないことを指して地獄行きだと仏教では言います。
この悪についてもいろいろ有ります。
一般的には十悪、五逆でしょうか。
今回はこの説明は割愛します。
次に責めるとは、自分の行為について、責任を取ることを放棄していることを間違いではないかと問うことです。
それを第三者あるいは信後のひとから未信の人に対して言われることです。

機責めについて大原性實の眞宗異義異安心の研究によると以下のとおりです。
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さて歡喜を強調する異義者は、その歓喜の信一念に到達する過程として、死の恐怖や深刻な罪惡觀を説く。
そして罪惡観に徹底することがなければ、入信は不可能であると強調する。
そこでこの罪惡觀を徹底せしむる爲には、一室に入れて沈思冥想せしめ、罪の告白懺悔をせまる等、中には神經衰弱に陥り、或はたまに發狂する者さえ生ずる者もあるという。
かくて機の罪惡を衝き、その徹底をせまり、或は地獄の猛火が足下に炎々として燃えつゝあるを凝視すべしとか、或はその地獄の猛火中に如來が泣き叫びつゝ、呼び給う御聲を聞くべし等と教えるという。
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ここで言われているのは、ご信心を頂くためには地獄行きを自覚する必要があるということです。
何を自覚するのかと言えば、深刻な罪悪感や無常感のことです。
上記文章では、感を観と同一視していますが本来は使い方が違いますのでこの文章の観を感として読みます。
ここで問題なのが罪悪感や無常感を強調することです。
深く罪悪や無常を感じなければ救われないということが問題であるということです。
仏教的には、「感」でなく「観」でなければなりません。
感じることでは無く、正しく見る観です。
ここが大事なところだと思います。

罪悪も無常も仏様の言われるように感じない自分を観ることが本当は一番大事なのです。

蓮如上人は御一代記聞き書きに以下の通り言われています。

「わが心にまかせずして心を責めよ。仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。」

この御文も誤解を招きやすいと思います。
自分の心を当てにするなということでは間違い有りませんが、懈怠な心に任せず頑張れとも読めます。

歎異抄の以下の御文が機責めの根拠にもなっています。

いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」

味わいとしてはありますが、地獄と言われても分かりません。
ただ、いずれの行(修行)も出来ない、自分の力で仏の悟りを開くことは絶対に無理だということは言えます。

仏教的には大無量寿経の下巻、五悪段の後に以下のようにあります。
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仏、弥勒に告げたまはく、「われなんぢらに語りしごとく、この世の五悪、勤苦かくのごとし。
五痛・五焼、展転してあひ生ず。
ただ衆悪をなして善本を修せざれば、みなことごとく自然にもろもろの悪趣に入る。
あるいはそれ今世にまづ殃病を被りて、死を求むるに得ず。
生を求むるに得ず。
罪悪の招くところ衆に示してこれを見せしむ。
身死して行に随うて三悪道に入りて、苦毒無量にしてみづからあひ燋然す。
その久しくして後に至りて〔再び人間界に生じ〕ともに怨結をなし、小微より起りてつひに大悪となる。
みな財色に貪着して施恵することあたはざるによりてなり。
痴欲に迫められて心に随うて思想す。
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簡単に言えば悪しか作っていないから、それにしたがって三悪道(悪趣=地獄、餓鬼、畜生の三界)に行くことです。

だから「お前は地獄行きだ」と言われると人によって色々な受け止め方になります。
考えられる代表的なパターンで問題化する場合として以下のように思います。

1 私は地獄に行くようなことはしていない。
 原因:地獄行きの業というものが何か分かっていない。
 結果:教えを聞いても、なかなか地獄行きの意味を理解出来ない。

2 地獄行きにならないと救われないのか。
 原因:地獄行きになれれば救われると手段化する。
 結果:罪悪を見つめたりする。過剰に思い込むが地獄行きの自分にならないことに悩む。

3 どうしよう、私は地獄行きだ。
 原因:過剰に罪悪を感じてしまう。
 結果:自分は生きている価値がないと思い込み精神的に病むこともある。

言い方もあると思います。
そもそも人として駄目であるとか、生きている価値がないなどと人格を否定することは仏教のみ教えとは異なります。
人や生き物を傷つけたことや犯した罪の告白をさせ、そのことを責めるのも間違っています。

我が身の姿は、お聖教に基づいて話すべきです。
それでも聞き手は色々な受け止め方をします。
結局その人の理解に合わせて話さなければなりませんので多くの人を対象に話をするときは、やはりお聖教を元に話すのが無難なのでしょう。
さらに浄土真宗で言う本当の悪は阿弥陀様の御本願を疑うことです。
ですから仏教的に言われている悪(大無量寿経下巻の五悪段にある悪)とは異なります。

浄土真宗では「ご示談」という一対一のカウンセリング的なことが伝統的に行われています。
最近はあまり聞きませんがちゃんとしたお寺では「ご示談」をしていただけます。

どうしても御信心が分からない人は「ご示談」を受けられるのも一つでしょう。

いずれにしても機責めの判断も人格否定や罪の告白等を強要するのでなく、仏教で言われている我々の姿を説くのであれば問題がないと思います。
ただ、分からないことを何度も何度も言われ続けることは、言われる方にとっては私を責めているように感じることもあるでしょう。
たとえば「貴方は迷っている、そのことを自覚すべきだ」と何度も何度も繰り返し言うことはどうなのかと思います。
ここで問題なのは相手を型にはめようとすることです。
これは強要になりますので今風の機責めと言われるかもしれません。
その場合、当然相手の理解度を判断することは説く方が気を付けるべき事だと思います。
要するに相手を思いやって話すことが重要だと思うのです。
阿弥陀様はどんなことがあろうと私を待って待って待ち続けていただいたのですから。



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