とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

東日本大震災

2011年3月11日

この日は本当に大変な日でした。

大きな地震に加え津波、その後、福島第一原子力発電所の爆発事故による放射能汚染被害が発生しました。

この地震津波により多くの命がなくなりました。

中でも大川小学校の児童と先生のほとんどが津波にのみ込まれて亡くなったことは本当に心苦しく思います。

先生の対応が良かったのか悪かったのかいろいろ言われています。

裁判では県と市が住民の訴訟に対して最高裁まで戦いました。

結果、住民が勝ちましたが、個人的には何か空しさを感じてしまいます。

裁判記録を読むと「どうして」と思うことが沢山有ります。

しかしながら結果としてかわいい子供達が先生と一緒に亡くなりました。

親の立場に立てば本当に残念でならない気持ちで一杯でしょう。

数人の子供と先生一人が生き延びましたが、この先生も生き地獄だなと思います。

 

沢山の知り合いが支援のため東北に行きました。

放射線線量計を見せてくれました。

仕事だけで無くボランティアの人も沢山いました。

残念ながら私は行く機会がありませんでした。

 

仏教的な言葉で言えば、宿縁、宿業と言えるでしょうが、その言葉で片付けることが出来ません。

いろいろ調べてみると本当に残念な気持ちになります。

子供達はどうして死ななければならなかったのか真実が知りたいと思われるやるせない気持ちは心が痛みます。

しかし、その姿は訴える方も反論する方も共に仏教的に言えば煩悩具足の凡夫の姿です。

非難しているように思われるかもしれませんが、どちらの立場も理解出来るし、自分がその立場に立ったら同じ事をするかもしれません。

そうは言っても裁判をされている人たちは、そんな言葉だけで納得できるとは思えません。

残念ながら裁判に勝ったところで子供は帰ってきません。

泣くしかないのです。

こういうとき仏教は本当に厳しいです。

 

※1

諸行無常

是生滅法

生滅滅已

寂滅為楽

  

生きていて欲しいと思う気持ちもなくならないと思います。

※2キサーゴータミーの例もあります。

死の縁、無量とは言え幼い子供達が今死を迎えるのはどうしても必然とは思えません。

納得できるはずがありません。

こんな時、阿弥陀様は貴方の後生を救うと言われても耳に届くとは思いませんが、

ただ、後生というものを多くの死を通して知らせて下さっているのは間違い有りません。

それは被害に遭った方たちだけでなく私も全く同じ立場なのです。

 

死んだらどうなるのか、何のために生きているのか、どう生きたら良いのか、苦しみから逃れたい。

この苦しみから逃れる方法はあるのか。

受け入れるしか無いのか。

救われたい、誰か助けてくれ。

分からない、でも、生きるしか無い、とにかく前を向いて生きるしか無い。

・・・そんな叫び声が聞こえます。

 

南無阿弥陀仏は響き渡っています。

 

今、救われなくていつ救われるのか。

今、救われなかったら後生はどうするのか。

放っておけない問題が大きく立ちはだかっているのです。

 

 

阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を南無阿弥陀仏一つで救うと誓っていらっしゃいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

※1涅槃経

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。

 弘法大師空海が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。

(wikidharmaより)

※2キサーゴータミーという母親がいました。
ようやくよちよち歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれます。
彼女は、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを尋ねます。
釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言いいます。
町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは、
「ああ、なんと恐ろしいこと。
私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。
でもどうでしょう。
町中を歩いてみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い。」
と死はどこの家にもあることに気づかされました。

 そこで釈尊が彼女に、

子供や家畜 財産に
気を奪われて とらわれる
人を死王は さらいゆく
眠りに沈む 村々を
大洪水が のむように

と詩をうたいました。
死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられたキサーゴータミーは、出家して生死輪廻の苦しみの世界を超えた、仏の悟りの世界を求めていきました。
こうして尼僧となった彼女に、釈尊

不死の境地を 見ることなしに
百年間も 生きるより
たとえ刹那の 生であれ
不死の境地を 見られれば
これより勝る ことはない

と詩をおくりました。

 

『ダンマパダ・アッタカター』パーリ語の文献(本願寺のホームページより)