とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

他宗を非難するつもりはありませんが・・・・

他の宗派のことをあれこれ言うつもりは無いのですが、最近私の周りでやたら幸福の科学の人が多くなりました。

議員に立候補するからよろしくなどと突然家を訪問してきます。

地方議員(市町村議員)も既に全国で十七名ほどいるようです。

幸福の科学の冊子も置いていくので何冊か読みました。

霊言という言葉を使い、過去の偉人が降臨し大川隆法氏を通していろんな提言等をされています。

また、体験談も沢山書かれており、現世利益のことが沢山書かれています。

既にHSU(ハッピーサイエンスユニバーシティー)も出来ています。

高等学校もあります。

幸福の科学」という冊子や、「ザ・伝道」という体験誌もあります。

内容は高森顕徹会が出版している「とどろき」よりも充実しています。

ほとんどが三帰誓願(仏法僧に帰依する=幸福の科学に入信する)することにより幸せになった、あるいはなるという話ばかりです。

そして、大川氏の話はほとんど先人達の人生訓が多いです。

冊子には覚りを開くとかそういうことは何処にもありません。

きっと会に入っていくと序列がはっきりしてくることでしょう。

なにせ、大川氏の新しい奥さんは坂本龍馬の生まれ変わりらしいので。

 

ところで、今回は何が言いたいかというと私という者は苦しい事があると何でも掴もうとするだろうということを幸福の科学の冊子を読んでいて気がつきました。

子供の頃、母親が占いに凝っているのに引きずられ手相や占星術などの本を読みました。その本の影響を受けたのかどうか知りませんが、行動が時にそういうものを基準にすることがありました。

当然、日の善し悪しを考えたり、方角を気にしてみたりしていました。

ですから、浄土真宗のみ教え、お釈迦様のみ教えに遇わせていただいていなかったら、いまごろ幸福の科学などを有り難く拝聴していることでしょう。

人生の苦しみにぶち当たった時、藁をも掴む自分がいますから。

それくらい今の苦しみから解放されるであろう言葉が沢山幸福の科学の冊子からも伝わるのです。

要するに一般的に感動する言葉が散らばっているのです。釣り餌ですね。

一度はまってしまったら、そこから抜け出して本当の真実と向き合うことは本当に難しいことだなと思います。

刷り込まれた知識や経験をリセットすることはほとんど不可能に近いことかもしれません。

 

 高森顕徹会の会員も同じ状態だと思うのです。

 餌につられて一度入ってしまって、何年もそこにいるとそこでの考え方や行動規範が身体に染みついてしまいます。そこを抜け出て自分のいる世界を見直すことは、勇気の要ることであり不安なことなのです。

片目の猿の仲間の中で一匹だけ両目の猿になるのですから。

そこで独り立ちさせてくれるのが仏様、阿弥陀様のお力だと教えて頂きます。

独り立ちと言っても常に阿弥陀様が付いておられるのです。

一人でいて一人でない、ありがたいことではないですか。

事実を事実としてそのまま見ることを教えて下さるのです。

誰よりも正常だと思っている自分が実は迷いの塊であると教えてくださるのです。

虚仮不実の世の中と非難する自分が実は虚仮不実と気がつかせていただくのです。

光明無量、寿命無量の南無阿弥陀仏にそのお力があるのです。

その南無阿弥陀仏が今私に呼びかけておられます。

 

畢竟依に帰命せよ。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

我が物にしたい!!

私は貪欲です。
何でも欲しいものは私のものにしないと気がすみません。
手にいれるまで諦めず努力します。
しかし、手に入れることが出来ないものも当然あります。
手に入れることが出来ない場合は、いつまでもうじうじしています。
しかし、それも時間が解決してくれます。
そんなことを繰り返して人生が過ぎていきます。
そんな人生を何度繰り返しているのかわかりません。
わかる知恵がないのです。
執着するのは今生ごとばかりです。
それに、さるべき業縁がくれば何をするかわかったものじゃありません。

後生の解決も同じです。
とにかくはっきりさせたいしかありません。
本当に後生があるのか無いのか全く分からないのにです。
たまたま、後生があると言う教えを聞いてしまったからなのか。
恐怖心を植え付けられたからなのか。
後生、死後の世界の行き先が分からず、不安でたまりません。
地獄に行くとお釈迦様が言われたと聞けば本人になんとなく悪いことばかりしている自覚もあります。
だから、なんとか逃れたいと思います。

しかしです。
何で後生をはっきりさせたいのでしょうか。
今生が苦しいから、空しいから、寂しいから、孤独だから、死にたくないから、地獄に行くと教えられたから、・・・・。
どうしてそういう感情が出てくるのでしょう。
実際、死の恐怖などどこ吹く風のように生きている人がほとんどなのに、どうして後生が気になるのでしょうか。
私にあるものは何か。
様々な感情が渦巻いて訳が分からない状態です。
たぶん、煩悩しかない私なのにです。
欲と怒りと愚痴しかない私にです。
不思議ですね。

何か目に見えない力があると思わずにおれません。

阿弥陀さまとのご縁もどうしてでしょうか。
他の仏さまでも構わないのではないかと思いますが、たまたま阿弥陀様だったのか。
なぜ、仏なのか、神ではいけないのか、もっと他のものは無いのか。
それでも、親鸞聖人のお言葉より、まわりに信心を頂いた方を見るに付け、私もああなりたい、の一心で御法にしがみつきます。
結局、人の持っている物を自分も欲しいと思う心しかありません。

阿弥陀様は誓われます。
私が何もわからず永遠に六道を回っているのを見られて不憫でならなかったから。
他の仏さまの救いに漏れたから。
だから必ず救うと誓っておられます。
その事は教えていただきましたが、全く自分ではわかりません。
六道を経めぐってきたと言われますが記憶にありません。

その阿弥陀様を全く信じていません。

それでも教えを聞かせていただくとそうかもしれないと思う自分がいます。
なんとなく仏の教えを聞かせていただくと満足するというか安心する自分がいます。
いや、思わされているのかもしれません。

いずれにしても私の中から出てくる感情なのでしょうか。
これを宿業、あるいは宿縁と言わずしてなんと言いましょうか。
アジャセ王の無根の信はこういう心から生まれているのです。

救いの御法、南無阿弥陀仏を教えて頂いたら、今度はそれを我が物にしたいと執着します。
どうしたら我が物になるのか必死になります。
とにかく早く自分のものにしたいと努力を続けます。
やけになって悪態をついたり、自分は駄目だと思っても諦めきれません。
根深い執着が原動力となって努力します。
5年でも10年でも20年でも30年でも粘ります。

自分を捨てることが出来ずに泣くこともあるでしょう。
全く無い人もあるかもしれませんが執着の心と戦う事になります。
我が物にしたい・・・・・。

この心こそ、阿弥陀さまの狙いかもしれません。
これしかないのです。


その心を捨て置いて阿弥陀様の御本願を聞かせてもらう、聞即信です。

そっくり、そのまま、落ちるそのままです。



南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

自由は責任を伴います。

高森顕徹会を退会したあとは本当に自由でした。

自分の責任ですべて決める、行動できる、それが嬉しかったのです。

尾崎豊的に言えば、支配からの卒業と言いましょうか。

今でもそうですが全て自分の責任において行動することが結構幸せでもあり、実はちょっと苦しみでもあります。

なぜかと言うと全てが自己責任になり誰にも責任転嫁できないからです。

高森顕徹会に居たときは専任講師がダメだとか、支部長や中隊長が悪いとか言えていたのが言えなくなって、今では全てが自己責任です。

自分の不幸を他人のせいにするのはある意味楽なことです。

ところがそれがすべて自分の責任となるとこれはまたなかなか重いため、支えを欲しくなります。

まあ、それはそれで私はこの人生、楽しんでいます。

youtubeでtoshiの歌を聞きながらマインドコントロールから抜けた世界にいる自分が不安定でもあり、物凄い安定感にいることも感じられているのは幸せなことでもあります。

自由とは幸せでもあり、一方で責任が伴う世界なのです。

そうは言いつつも今の自由は何物にも代えがたいものです。

 

阿弥陀さまは私に究極の自由を与えてくださいました。

お前はこれ以上落ちようの無いやつだと教えていただきました。

それこそお目当ての御本願。そのまま救うぞの南無阿弥陀仏

有り難い事です。ようこそ、ようこそ。

 

年度も替わり新たな世界に入り人間関係も変わった人がいると思います。

別れと新たな出会いがあります。

一方、なにも変わらず昨日と同じと思われる方もいるでしょう。

それでも一日一日必ず変化して行くのです。無常です。

 

たとえ生き恥をさらそうとも、阿弥陀様に頂いた命です。

お念仏と共に自由に生きていきます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

  

悪人成仏

悪人成仏とは歎異抄第三条に書かれています。

 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

 

親鸞聖人は、悪人正機とは言っておられず悪人成仏と言われています。
悪人正機とは、悪人が正客、対象であると言うことです。
当たり前ですが阿弥陀仏の本願のお目当てと言うことです。
一方、悪人成仏とは、悪人が成仏するという事です。

親鸞聖人は悪人をどのように言われているかと言うと同じく第三条の中に以下のように言われています。

 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば・・・

 

煩悩具足の我らは、いずれの行によっても生死を離れ(六道を出離すること)ることは出来ないものと言われています。
煩悩具足を悪人と言われているのです。
貪欲、瞋恚、愚痴ですね。

ところが同じ歎異抄第一条にはこのように書かれています。

 

本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと

 

本願を妨げるような悪は無いのだから、悪を恐れるなと言われています。
私はこんな悪人でどうしようとか、悪ばかり造っているからもっと良いことをしなければ助からないとかそんなことは阿弥陀様の御本願は問題にされていないと言われています。

また、第十二条には以下のように書かれています。

 

本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ・・・

 

阿弥陀様の御本願は善いとか悪いとか、きれいとか汚いとかを問題にしないと言われています。

さらに、第十五条にはこのように書かれています。

 

来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。 これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

 

修行の出来ない機の劣ったもの救う教えであり、善悪を問わない教えであると言われています。

では、悪人成仏で言われている悪とは何か。
矛盾しているように感じるのは、悪を道徳的、また世間一般で考えておられる悪と思うからです。
どうも人を殺したり盗んだり悪口を言ったりと言う当然仏教で説かれている悪を対象に言っているようには思えません。

 

善悪を問わないとは、何が善で何が悪か問題にしないとはどういうことか。
仏様と私を比較した場合、仏様が善で私は悪です。
阿弥陀様がすべて善で私はすべて悪と言うことです。
本願を信じない、救いを疑う、自力の計らい一杯、これが悪なのです。
この自分でも気がついていない常識の善悪を超越したところの悪を対象としているのです。

 

弥陀智願の広海に 凡夫善悪の心水も 帰入しぬればすなわちに 大悲心とぞ転ずなる

正像末和讃

 

「転ず」の左訓に「アクノ心ゼントナルヲテンズルナリトイウナリ」とあります。
凡夫は変わりません。煩悩具足も変わりません。
煩悩が善になる訳がありません。
ところが悪の心が善と変わると言われているのです。
悪は、仏を疑う自力の心の事なのです。

 

そして第十四条にはこうあります。

 

この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、

 

この阿弥陀様の御本願が無ければ、この浅ましい罪人はどうして生死を解脱出来るものかとあります。ここでの罪人は煩悩具足の凡夫のことを言われているように思われますが、実は自力無功の我が身を嘆いて言われていると思われますので混乱します。

最後に後序を引用します。


聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを・・・

 

それほどの業をもっている身を助けようと思われた本願のかたじけないことよと言われています。

いずれの行も出来ない、自力では仏に成ることが出来ない、と言われているわけで、繰り返しになりますが悪人成仏の悪は道徳や常識で言う悪ではありません。

 

常識や道徳で言われている悪、また仏教で言われている悪は当然慎むべきであり、私が聞かせていただいているのは仏教なのですから控えるべきものは当然控えなければなりません。
一方で現代に於いて生命の尊厳や尊さを軽視した考え方に毒された人においては、そもそも道徳的な悪を教える必要があります。


しかし、高森顕徹会で教えるのは道徳的な悪を徹底的に止めるよう強要されるため、長年会員をされている方の中には耐えられず自分の存在も否定してしまいます。

高森顕徹会での地獄一定がハッキリしたとか、罪悪深重の我が身が知らされたとかいう極端な体験を強調し、そうならなければ救われないとは、お聖教の何処にも書いていません。
それは人それぞれ、中にはそういう人もいるでしょう。個人的には疑わしいところがありますが、実際に高森氏が本当にご信心を頂いているのかどうかは阿弥陀様にしか分かりません。一方で高森氏に導かれたという人もいると聞いています。

見えない人には分からない、信じられない世界かあるかもしれません。
ただ、誰にも分からないからそれは真実では無いと決めつけるのも間違っています。
また、見えたと言っている世界が本当に正しいかも分かりません。

 

お釈迦様の覚りの世界が分からないように信心の世界も分からないことが多く、これが信心の世界などと決めつけることも難しいと思います。
それでも阿弥陀様のお慈悲に触れたお同行は同じ事を言われ、共に響き合うことが不思議と出来るのです。
だからお聖教のお言葉に従い、同じ念仏者として友、同行と信心を語り合うことが大事だと思います。

機を喜んだり法を喜んだりそこで響き合う世界が信心の世界です。


私の信心が本当かどうか、そんなことはどうでも良いと今は思いますが、友、同行と語り合える世界がブログの中にも広がっていることが嬉しく思います。

阿弥陀様のお陰、南無阿弥陀仏しかありません。

 

悪に関して言えば、阿弥陀様の救いの基本は自力ではどうしてもこの生死の一大事を解決出来ないという点に関してうなずけるのかどうなのかを問題にしているわけです。
高森顕徹会で地獄一定を徹底的にたたき込まれ、そのせいで精神を病んだり仏教から遠ざかったりした人は多くいるでしょう。
そんな地獄秘事的な教えは典型的な異安心として残っています。
地獄秘事の事例として東本願寺の江州光常寺の記録が真宗大辞典にあります。
興味のある方は調べてみてください。

また今回は書いていませんが懺悔と歓喜の問題もあります。
これはまたいつか書きたいと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

宗教法人法

宗教法人法という法律があります。

所管は文部科学省又は文化庁ですが、高森顕徹会の所管は富山県庁です。

また、宗教法人は登記簿に登記する必要が有りますので高森顕徹会の登記簿は富山市にある法務局に行けば、宗教法人法に基づく代表役員や責任役員が分かります。

その際、財産目録や宗法などの重要事項なども決められていますのである程度の高森顕徹会の組織が理解できます。

また、高森顕徹会の本部に備え付けてありますので利害関係人なら閲覧する権利があります。

 

真生会富山病院は医療法人ですのでさらに別組織として登記されているため組織を調べようとしたら申請は厚生労働省の所管ですが地域の病院扱いになりますから、これも富山県庁が所管です。

 

宗教法人も医療法人も毎年、決算報告をしなければなりませんので公認会計士による監査等しなければなりません。また、決算資料を所管する県庁に届け出をし審査を受けなければなりません。これも同様に閲覧する権利は利害関係人にありますが、まず高森顕徹会の事務にまともに申請しても拒否されるでしょうが、いくらでも開示させる方法はあります。

また、従業員の扱いについても明記することになっていますので、社会保障が必要な場合は労働基準監督署の検査対象になります。

 聞くところによると専任講師は委任契約ですので委任内容が終了すれば契約解除となり無職となります。

以前は給料を支払っていましたので雇用契約していたのでしょうが、確か平成12、3年頃(間違っていたら済みません)に高森会長と同じように専任講師も一人一人で頑張るといった時点で皆首切って放り出されたはずです。

ですので会のなかに居るときは先生と呼ばれますが、一歩社会に出ると何の保証もありませんので車一つ買うのも大変です。身分は季節労働者とほとんど同等といっていいと思います。

ですからマンション購入など不可能に近いでしょう。

ということは専任講師は皆国民年金だけで雇用による社会保険等の年金はありませんので将来はさぞかし不安なことと思います。

たた、一部の幹部講師には高額な報酬を支払っていますので、辞める気にはならないでしょう。

 

また、高森顕徹会は一般的な宗教法人にある総代会等が決められていませんので、専任講師や会員には何の権限も無くただ搾取されるだけの存在となります。

その辺りのことをいち早く知った専任講師は既に別の道を探っているのでしょうね。

だから高森氏のお孫さんたちは一人残らす専任講師などにはならずに一般的な社会人になっています。

長男の子供さんたちは皆病院の事務員です。以前、真生会の理事長は高森さんの長女だったはずです。

 専任講師のお子さんたちも専任講師になったとは聞いたことがありません。子供の将来を考えたら本当は自分達が一番分かっているのでしょうが、分かったときには自分の将来は手遅れな状態だったんでしょう。

 

さて組織の重要事項は責任役員達で勝手に決めることができます。例えば財産処分や宗法の改正などです。

宗教法人法上は最低限、代表役員を含む三人で組織を運営できますので、現在は代表役員は高森顕徹氏、責任役員が高森光晴氏、もう一人が高森玲子氏、他に2、3人位に変わっていると思います。

組織の黎明期は深松氏と菊地氏が責任役員だったでしょうが高森顕徹氏の意見を通すために役員の3分の2以上を家族にしていると思います。

そして専任講師が委任契約になった頃から次から次にしょうもない計画を立ち上げます。

これは委任契約内容が毎回同じだと専任講師が継続的雇用と見なされ労働基準監督署から指摘される可能性があるため契約内容を変更していると思われます。

下手をすると小堀弁護士も責任役員の中の一人に取り込まれてがんじがらめになっているかもしれません。高森顕徹会がおかしいと思っても辞めるに辞められない状態なのかもしれません。組織の維持を目的に高森会長の言われるまま、あらゆる手を使っていますが、飼い殺しにされているような気がします。弁護士としてオーム心理教の青山弁護士のように成らないことを祈ります。

 

最近の高森顕徹会の状況を見ますと内にこもって首を引っ込めた亀のようです。内々でおかしなことをやり続けているわけですが、高森顕徹会のおかしな行動を止めさせ、会員の後生を守るためには法律的な動きをしないと変えることは難しいでしょうかね。

 

親鸞会被害者の会を結成して集団訴訟するとかもあります。個人的にはやる気は有りませんが、民事なら十分やっていけると思いますがどうでしょうか。

 

また、嶋田さんが専任講師が誰も立ち上がらないことを嘆いていましたが、専任講師が立ち上がって組合運動でも始めると良いんですけど。例えば、雇用契約がおかしいとか。

大体、専任講師になる誓約書なんて社会的に全く通用しない私文書なんですから、無視したって何ら法律的な違反行為ではないんですが、専任講師にはハードルが高いのかもしれませんね。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

洗脳

「洗脳」という本を読みました。

X-japanのToshiがホームオブハートのMasayaこと倉渕透と守谷香に徹底的にマインドコントロールされた経緯が淡々と書かれています。
彼らは10数億円のお金を騙し取り、未だにヒーリングの音楽を売っています。
守谷香はToshi を騙してお金を取るために夫婦にまでなっています。
実質的にはMasaya の愛人でToshi から奪ったお金で豪華な生活をしているのです。
Toshi のような純粋な人は簡単に洗脳されます。
まさか、自分の妻が騙すとは思ってもみなかったでしょう。

一方でなぜ守谷香がそんな人間になったのか。
Masaya はいつから人を騙すようになったのか、
そこのところは良く分かっていません。どこかでセミナーを受けたと言っていますが何処でマインドコントロールのスキルを手に入れたのか詳細は不明です。

翻って高森顕徹会長は何処で洗脳技術を手にしたのか。
知り合いに言わせると持って生まれたものだと言います。
個人的には戦争時代の経験が大きいと思います。
暴力(暴言と恐怖)と恩賞(選民意識とユートピア思想)によって正しいことをしていると植え付けていくのです。
一年も経てば立派な洗脳者の出来上がりです。
専任講師が良い例です。
後は搾取するだけです。

また、騙されても後悔がなければ問題はないと安易に言うことは出来ません。
法然上人にすかされても後悔がないと言われた親鸞人とは全く異なる状況なのですが、これも安易に高森顕徹会では使いますので注意が必要です。
何が違うかと言えば、親鸞聖人は法然上人のお陰で阿弥陀さまの救いにあずかっているからです。
高森顕徹会の人はほとんど誰も阿弥陀さまの救いにあずかっていないからです。幸せになれると言われながらどんどん貧乏になっていくのです。
おなじ言葉でも詐欺師が使えば騙しの道具になります。
宿縁とは言え真実の教えに出逢うのは本当に大変なことと思います。

最近、夕顔さんのブログ(夕顔の日記)がとても面白いです。
指摘されている専任講師たちの姿が思い浮かびます。
夕顔さんのブログを読んで思うのは幹部講師のほとんどは確信犯だということです。
信心決定なんてどうでもいい、それより会の中での地位が一番大事だと思っているようです。
まして会員の後生など。

純粋な会員や末端の講師たちは命令通りに動く駒です。
彼らはほとんど救われることなく死んでいきます。
自力かなわで流転せりです。
白骨のお文のとおり哀れと言うも愚かなりです。
一人でも多くの人が阿弥陀さまの今の救いに気がつかれることを願ってやみません。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

臨終間際にお念仏を称えたら本当に往生できるのか?

みそみそさんからご質問を頂きました。

 

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みそみそ

以前、瓜生崇さんの法話を聞いて 下下凡の凡夫は臨終に南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できると聞きました 今際の際に南無阿弥陀仏と唱えるだけでホントに浄土に往生できるものなのでしょうか?
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みそみそさんが苦しまれていることはよく分かります。
どうしてもハッキリしない。信じ切れない。信心頂いた感じがしない・・・。
ならば、臨終に念仏を称えれば何とかなるのかと思うのも無理ないことです。
「下品下生の凡夫は臨終に南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できる」は観無量寿経に説かれていますので間違いないことです。
しかし、いつ臨終になるか分かりませんし、臨終の時頭がハッキリしているとも限りません。
 
解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ
 
ここでは、阿弥陀様の光にあったものは有無の見から離れることになると言われています。言い換えれば、お浄土がある、無い、の考えをはなれると言うことです。
あろうが無かろうが問題では無いところにお浄土があると大峰顕先生も言われています。
 
個人的には、そうかもしれないな~くらいです。
この間風邪を引いた夜、鼻が詰まって息苦しくなって目が覚めたとき、このまま息が出来なければ死んでいくのかと思ったら行き先が真っ暗でどうしようかと思いました。阿弥陀様はどこにおられるのか一生懸命探しましたが、ああ、お念仏かと思い出したぐらいです。
私には何も無いのだとあらためて思いました。
「そんなんで本当に信心決定していると言えるのか」とおしかりの声が聞こえてきます。
済みません、こんな程度で。
死にたくない、苦しいのは嫌だと思いました。
しかし、このまま死んで行くだけなんだと受け入れざるを得ない自分がいました。
結局、苦しいのは嫌なので死ぬならぽっくり死にたいと思ったのですが、これも煩悩かもしれません。
死は生と裏腹で常に表裏一体、生死一如です。
「そんなこと知っている」と言われるでしょうが、やはり私は忘れっぱなしです。
まして、お浄土など考えも及びません。
 
江戸時代、臨済宗に仙厓義梵和尚という高僧がいらっしゃいました。
亡くなる間際に檀信徒や弟子たちから、辞世の言葉を求められたので、すると仙和尚は「死にとうない」という一言だったのです。
名僧の最期の言葉がこれでは困ると思い、弟子たちがもう一度うながすと、やはり「死にとうない」という言葉が返ってきます。
あわてた弟子たちが、「いえ、ご冗談ではなく、どうか本当のお言葉を......」と、さらにしつこく念を押すと、仙和尚は、繰り返し「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言ったという逸話が残されております。
 
これが本当に死にたくないと恐怖で言っているのか、それとも、分かった上で言っているのかは分かりませんが、死の縁無量です。どんな死に方をするか分かりませんが、個人的感想ですが自分の行き先を分かった上で言われていると私は思います。
嶋田さんは「思い残すことは無い」と言われて亡くなっていきました。
それでも臨終はどうだったのか分かりません。
その時は死にたくないと思われたかもしれません。
行き先とは別に、死苦は逃れられない苦しみの一つなのです。
 
死に際して、自分がどうなるかなんて全く分かりません。自分の意思で生まれてきたという自覚はありません。まして、いつ死ぬかも分かりません。
だからこそ阿弥陀様が今私に呼びかけておられるのです。
自分には信じる心も、念じる心も、求める心さえ無いのです。
その私が何の御因縁かお念仏を称えさせていただいています。
お念仏は捕まえようと思っても捕まえることは出来ません。
なにせお浄土から届いているのですから。
お念仏にお任せしたら、そのままお浄土行き決定、正定聚不退の身となります。
お浄土行きの一番近道はお念仏です。
お任せするしか有りませんね。